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2021年12月12日号
スポーツ 「赤ヘル軍団黄金期」を築いた広島の古葉竹識元監督が死去
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 万年Bクラスの弱小球団を立て直して「赤ヘル旋風」を巻き起こしたプロ野球・広島の元監督、古葉竹識氏(享年85)が11月12日、心不全のため死去した。1958年に広島入団。俊足巧打の内野手として盗塁王2度、球宴出場3度など活躍し、南海に移籍して71年限りで引退。南海コーチを経て74年、コーチとして広島に復帰し、翌75年に15試合で辞任したルーツ監督の後を継ぎ、39歳で監督就任すると頭脳的な采配で快進撃を続けて初優勝をもたらした。市民球団で資金力がない広島を11年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いて「赤ヘル軍団」の黄金期を築いた手腕で、99年には野球殿堂入りを果たしている。

 広島監督退任後は大洋(現DeNA)監督を務めたが、スカウティングや機動力野球が結実する前に球団との考えの違いから3年で辞任。「チームを変えるのに5年はほしい」との古葉氏の思いは、辞任した直後に野村弘樹、谷繁元信、石井琢朗らが主力になったことで証明される。

 試合中の定位置はベンチの隅、バットケースの後ろ。半身を隠しながら鋭い眼光でグラウンドを見つめる。選手には「強烈な蹴とばし」もあったが、試合が終わると温厚で笑顔を絶やさない。酒はほとんど飲めなかったが雰囲気は好きで、筆者もずいぶんご一緒した。野球の「いろは」から教えていただいたが、緻密な眼力には脱帽したものだ。

 79年の近鉄との日本シリーズ第7戦。「江夏の21球」として語り継がれる九回無死満塁の局面では、北別府学と池谷公二郎がブルペンで投球練習を始めたので江夏豊が怒ったというが、古葉氏は「延長に入ったり、打球が直撃したりして代えざるを得ない状況もある。全ての局面を考えて準備するのが監督。辛(つら)いこともある」。連続フルイニング出場記録にあと22と迫っていた不振の衣笠祥雄を先発から外したことも。色紙に書くのは「耐えて勝つ」。厳しいながらも、忍耐の采配を貫いた指導者だった。

(水木 圭)

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