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2019年3月10日号
新天皇論 両陛下によって完成された象徴天皇
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今上天皇の退位による代替わりを控え、私たちは天皇制のあり方を再考することを求められているのではないだろうか。

現代史研究の第一人者が、近代日本の天皇像の変貌を見据えながら、憲法の下での象徴天皇制をつくりあげた今上天皇の努力と、皇后が果たした重要な役割を読み解く。

4月1日に新しい元号が発表になる。どのような意味を持つ元号か、予測はつかないが、新天皇の存在が歴史的に意味あるような元号であってほしいとの感がする。明治、大正、昭和、そして平成といずれも漢籍から採っているわけだが、今回はどのような原籍から採られるのだろうか。元号は確かに西暦に変わっていく流れが進んでいるにせよ、依然としてこの国の生活習慣や文化的伝統の役割を果たしているように思う。
東京や埼玉の一部では、小学生の間で、安心とか安全などを祈って、「安」という文字が元号に使われる、といった話が流布しているそうだ。まさか安倍首相の「安」ではあるまいな、との声を私も聞いた。そのほかにもあれこれ諸説が流れているそうだ。巷(ちまた)の関心も高い、というのは悪いことではない。
さて、天皇の代替わりが〈崩御、即位〉といった形での移行ではないので、改めて冷静に時代の分析、天皇制のあり方などを考えることができる。その意味では今回の代替わりは、多くの機会を与えているといえるのではないかと思う。平成の天皇が史上初めてつくられた象徴天皇像、それを支えた皇后の役割、そして近代日本の中で平成という時代が果たした意味、さらには次の時代にどのような形を託したのか、新しい天皇、皇后の果たすべき役割などを改めて冷静に考えることができる。本稿もその一助に、との思いがある。
言うまでもなく平成の天皇は、近代日本の中で独自の役割を与えられた。近代日本がその草創期にどのような国家をつくり上げていくか、という模索期間に、結果的に軍事主導の帝国主義的国家を模索したのはやむを得ないにしても、その折に帝国主義国家ではありつつも市民社会の道義を軸にするという道もあった。明治新政府の施策の中にはその萌芽(ほうが)もあった。慶応3年の大政奉還、慶応4年・明治元年から明治18年の第1次伊藤博文内閣の誕生までの20年弱、日本はどのような国家づくりを行うかの闘い、せめぎ合いを続けた。
私はこの間に四つの国家像があったと思う。前述の二つ(帝国主義国家、帝国主義的道義国家)に加えて、自由民権国家、折から南北戦争を終えて国づくりを始めたアメリカを模しての連邦制国家があっただろう。そのような国家づくりのいずれを見ても、天皇を主権者とする国家づくりしかなかったともいえる。自由民権論者たちが作った私擬憲法にしてもその点は変わりない。つまり天皇を大元帥、主権者としての立場までは強調しないまでも国の代表という視点で見ているのである。

◇これまでにない天皇像の確立

なぜ明治の草創期の国家づくりを改めて問うのだろうか。理由は簡単である。即位した時に14歳であった明治天皇は、こうした開国路線を歩むように政治指導者たちから期待され、そしてともに歩んだのである。天皇制について考える時の要諦の一つはこの点にある。

天皇自身の意思、歴史観、さらには伝統儀式への取り組みなどは、側近たちから少年・明治天皇に教えられたといっていい。だから主体性がなかった、などといっているのではない。明治天皇と伊藤博文などの関係を見ても、そこにはこの国を一等国にするとの共通の認識があり、ありうべき天皇制の姿を模索している。
大正天皇は人間的には、〈武のひとではなく、徹底した文の天皇〉というべきタイプであった。結局その役を正確につかむことができずに摂政を置くことになった。大正10年に療養生活に入っている。昭和天皇は、明治天皇、大正天皇とは異なり、近代日本でただ一人、体系だった帝王学を学んだ。この期間は大正3年から10年までみっちりと、近代日本の天皇はいかにあるべきかをシステムとして学び、そこでの役割は軍事主導体制の姿を正確に身につけることであった。いわば人工的に天皇像がつくられ、そこで学んだことをそのまま実践することが天皇の役割だったということになる。
昭和天皇は、87年の生涯においてどれほど人間的な煩悶(はんもん)を続けてきたか、そのことを考えるともう一つ別な見方ができる。つまり昭和天皇はご自身で自立するために、戦後は人間天皇の道を晩年まで模索しつづけた。私はその姿に畏敬(いけい)の念を持つ。こうした歴史を踏まえた見方で改めて平成の天皇を見た時に、独自の天皇像を確立するためにどれほど多くの苦労があったかは容易に想像がつくのであった。それゆえ丁寧にその像を確認しなければならないと思う。
平成の天皇がつくられた天皇像は、この3年ほどに限ればさまざまな形で国民に示されてきたように思う。2016年のビデオメッセージ、8月15日の戦没者追悼式、18年の誕生日会見などでのメッセージに触れると、そのお気持ちがわかってくる。あえてそのようなお言葉やお気持ちの反映した部分について、私は平成の天皇がどのような天皇像をつくろうとされたのか、そしておつくりになったのかを考えたいと思う。
平成の天皇は次のような過酷な条件のもとで、新しい天皇像をおつくりになられたように思う。わかりやすく箇条書きにしてみたい。
(一)平成の天皇は12歳まで戦争の時代であった。いわば物心がつく頃から一貫して戦争の時代であった。
(二)少年期の教育は同年代の者と同じく聖戦意識の涵養(かんよう)であった。一方で昭和天皇は皇太子の軍内への任官は拒んでいた。
(三)敗戦は衝撃であり、新しい時代での天皇像は東宮職参与の小泉信三などによる、従来とは異なるタイプの教えが軸になった。
(四)新しい憲法のもとでの象徴天皇の模索は、側近たちの助力を得ながら着実に進められた。これまでにない天皇像の確立が託された。
(五)とはいえ、こうした歴史上の変化があったにせよ、皇太子、そして天皇としてのご自身の考え方、行動が史上初めての象徴天皇の姿を現実に実らせることになった。
こうしたことを整理していくと、天皇はいかに象徴天皇像を確立するかという点で、多くの人の支えはあったにせよ、ご自身の決断が大きな力となったことがわかってくる。

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