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2018年12月30日号
美智子さまとその時代 第八回(最終回) 明治、大正、昭和、平成...天皇を支えたそれぞれの皇后
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近代皇室は、時代の要請に適した変革を遂げてきた。そこには、天皇を支え続ける皇后の存在が欠かせない。最終回は、前後編にわたって近代皇室、特に皇后の歴史を振り返り、美智子さまのありようを浮かび上がらせてみたい。

平成という時代の終焉(しゅうえん)がいよいよ近づいている。
この11月30日に、秋篠宮の誕生日前会見があった。それは、まさに新しい御代(みよ)の到来を予想させる内容だった。
大嘗祭(だいじょうさい)という言葉について、私たち一般国民は、それほど深い理解があるわけではない。しかし、来るべき新天皇の即位に際して行われる、さまざまな儀式であるとの認識は持っている。前回、天皇が即位するにあたっては22億円もの費用がかかったという。したがって、次のような秋篠宮の発言は、それを踏まえた上でのことだったのだろう。
「大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。ただ、そのできる範囲で、言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。(中略)そういう形で行うのが本来の姿ではないかなと思います(後略)」
その理由として、大嘗祭は宗教色が強いので、それを国費で賄うのが適当かどうか。宗教行事と憲法との関係を考えた場合、これは内廷会計で行うべきではないかという趣旨の意見を述べた。さらに、このことを宮内庁長官などに言ったが「聞く耳を持たなかった」のが残念だったと語った。
かなり厳しい批判とも受け取れる発言だった。現に、宮内庁次長は「宮内庁に対する叱責と受け止めている」と述べている。実のところ、国家予算か内廷会計か、どちらで賄うかという問題を考える以前に、これから新たに皇嗣(こうし)という立場に就く予定の秋篠宮が、自身の意見や宮内庁に対する不満を、ここまで率直に示した事実への驚きが大きかった。
しかし、思い起こせば平成28年8月に、天皇陛下はテレビを通してのビデオメッセージで、生前退位の希望をにじませた。その中には、これまでのしきたりとして、天皇崩御の後に「重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます」として、そうした行事と、新時代に関わる行事が同時進行になるので、関係者の負担や、特に残される家族が「非常に厳しい状況下に置かれざるを得」ない。だから、「こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来する」ことがあると語った。
これもまた、今まで続いて来た皇室の儀式の継続に対する疑問だったと解釈できる。その意味では秋篠宮の大嘗祭の規模に関する問題提起と、底辺で共通しているように思われる。

◇生まれながらにして天皇の正室

こうした陛下や秋篠宮の発言への賛否はさておき、新たな御代では、皇族が自らの意見をメディアを通してはっきりと発信することになるという予感が十分に現実味を帯びてきたといえそうだ。

それは今の天皇、皇后両陛下が取り組んできた皇室の改革と無関係ではないだろう。
しかしまた、こうも考えられないか。明治維新以降、実は皇室は常に変転を続けてきた。なにも平成に限ったことではない。
そして、その維新以降の改革や変転は、もちろん国際社会の潮流、時の政権、天皇の意向などに強く影響されたが、同時に皇后の努力や采配もあったはずだ。皇后に対する国民の尊敬や憧憬(しょうけい)の念は、天皇に対するそれに劣るものではなかった。
そこであらためて、明治維新以降の4代の皇后たちが、目前の課題にどのように取り組み、皇室の近代化に尽力してきたかを振り返ってみるのも、あながち無駄な作業ではないだろう。
美智子さまは初めて民間から嫁がれた皇太子妃ということで、ご成婚当時から現在に至るまで、メディアの報道はしばしばこの点に触れる。だが、思い起こしてみると、「初めて」という副詞は、平成の皇后にのみつけられるわけではない。歴代の皇后が、何らかの「初めて」を体現して輿(こし)入れし、その地位に見合った行動をした。
よほど皇室に興味のある人や研究者は別だが、私たちが天皇陛下という言葉を聞いて具体的な肖像が思い浮かぶのは、明治天皇からであろう。同じく、皇后に関しても明治天皇の后(きさき)だった昭憲皇太后より以前の皇后はあまり馴染(なじ)みがない。洋装の昭憲皇太后の写真を見た記憶がある人は、多いのではないだろうか。
細身の小柄な女性であるが、優雅にドレスを着こなしている印象が強い。その裏には、初めて京都から東京に移り住んだ皇后としての懸命な努力があった。
千年以上にわたって京都に住み続けた皇族や公卿(くぎょう)たちが東京へと移ったのは、明治維新以後である。その意味では、近代皇室における初めての皇后ともいえた。そして明治、大正、昭和、平成の4代の皇后の中で唯一、京都生まれで京都育ちだった。
嘉永2(1849)年に一条忠香(ただか)の三女として生まれたが、正室の子供ではなかった。生母は上〓(じょうろう)(身分の高い女官)の新畑民子(にいはたたみこ)である。
小田部雄次の『昭憲皇太后・貞明皇后』(ミネルヴァ書房)によると、江戸幕府は公卿の中でも、近衛、九条、二条、鷹司(たかつかさ)、一条の、いわゆる五摂家を朝廷統制のために優遇した。宮中の席次でも五摂家は宮家よりも上位に置かれるほどだった。さらに、天皇の后は五摂家から迎えられるケースが多かった。したがって、一条家出身の昭憲皇太后は「将来、天皇の正室になる可能性を生まれながらに有していた一人であった」(同)という。
その基準とは、家柄と共に、10歳下から5歳上というのが「おおむねの目安であった」らしい。つまり年上でもかまわない。実際、19歳(数え)で入内(じゅだい)することが内定した昭憲皇太后は、明治天皇より3歳年長だった。
余談だが、一条家の当主・実良(さねよし)の孫娘と、戦後になって結婚したのが、美智子さまの大叔父である正田文右衛門。したがって、正田家と一条家は姻戚関係にあると、前出の小田部の著書には記されている。
明治2年に明治天皇と皇后が東京へ移り住み、近代皇室の歴史が始まった。外国へ門戸を開き、急速な文明開化を進める日本にあって、皇后の役割もこれまでとは、まったく異なるものとなった。なにより人前に出ることなど明治以前には考えられなかった。しかも諸外国との国交が始まり、生活のスタイルそのものが変化した。欧米の風俗や制度を取り入れ、模倣した。

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