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2018年8月19日号
天皇陛下「最後のおことば」に込める「想い」/上 平和主義への両陛下のご意思
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平成最後の全国戦没者追悼式が行われる。天皇陛下が「おことば」を発するのも最後となる。即位以来、天皇陛下は終戦記念日には、戦争の記憶への意識喚起と犠牲者への追悼、戦後の平和を尊び未来につなげる意思を語ってこられた。現代史研究の第一人者が「最後のおことば」を読み解く。

平成最後の夏である。まるで日本全土が亜熱帯に入ったような有り様だ。8月の暑さは、終戦を告げる玉音放送と重なる。私自身は当時5歳だからさして記憶はない。強いて言えば周辺の大人たちの間で緊張が解けたような空気が広まったように思う。
しかし、この国にとって8月の記憶は常に羅針盤の役を果たす。今はあの時代と重なり合うことはないだろうなとの自問が社会に広がる。今年はどうだろうか。今年の8月15日に行われる戦没者の追悼式は、今上天皇にとって最後の式である。そのおことばもまた最後である。どのようなおことばが発せられるか、つまり今上天皇は「平成」という時代をどのように評するのか、改めて関心が持たれるのだ。
今上天皇は即位以来、戦没者追悼式でご自身の戦争に関するお気持ちを200字足らずの文面の中に盛り込まれてきた。そのお気持ちは1989年、つまり平成元年からのおことばを並べてみるとよくわかる。
たとえば即位以来、初めての追悼式では次のように述べられた。あえて引用しよう。
「『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に際し、ここに、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、尊い命を失った数多くの人々やその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。顧みれば、終戦以来すでに44年、国民のたゆみない努力によって築きあげられた今日の平和と繁栄の中にあって、苦難にみちた往時をしのぶとき、感慨は誠につきるところを知りません。ここに、全国民とともに、我が国の一層の発展と世界の平和を祈り、戦陣に散り、戦禍にたおれた人々に対し、心から追悼の意を表します」
このおことばは見事なほど「過去・現在」の二つの文節から成り立っている。そして「未来」はこの過去と現在の延長にあることが示唆されている。同時に昭和天皇の最後のおことばである前年(1988年)の内容とほぼ同じでもある。昭和天皇は戦争の犠牲になられた多くの人々と遺族を思い、「今もなお、胸がいたみます」との言を用いられているが、今上天皇は「感慨は誠につきるところを知りません」と一歩距離を置いた表現を使っている。そのような違いがあったにせよ、お気持ちは共有している。
もとよりここには、太平洋戦争は昭和天皇の時代のことであり、今上天皇にあっては直接関わりを持たないという立場上の違いもある。それがこうした点で違いを生むとも考えられるのだ。

◇これまでの「おことば」を読み解く

私は、今上天皇と皇后が象徴天皇像を作り上げていくプロセスの中に、この戦没者追悼式のおことばを位置づけるべきだと考えている。具体的にそれはどういうことか。初めての追悼式にご出席したのは今上天皇の即位した年でもあるのだが、今上天皇が国民に向けて発せられたおことば(平成元年1月9日「即位後朝見の儀」)の中に、

「ここに、皇位を継承するに当たり、大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし、いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ、皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、(以下略)」
とある。これはきわめて重大だと私は思う。本来なら、この一節は「皆さんとともに日本国憲法に従って」でもいいはずである。しかし、「を守り、これ」の六文字を加えることで意味は大きく変わる。
これは私の解釈となるのだが、この6文字が加わることで今上天皇は「政体」の下に「国体」を置くことになったともいえるように思う。これは明治、大正、昭和のそれぞれの天皇とはまったく異なっている。国体の下に政体を置いていたからである。
今上天皇は、戦争というこの国の体験を二度と繰り返さない政治体制、それを保障している日本国憲法を守り、「私(天皇)」はその下にいると言ったようにも思える。国民に向けての初のメッセージで、このことを明らかにしていたと考えれば、戦没者追悼式のおことばは、その延長にあることは容易に想像できる。私はこの視点で捉えていくべきだと考えてもいる。そうすると意外な事実にも気づくのである。実は今上天皇の8月15日のおことばは、ほとんど毎年大きくは変わっていない。しかし歴史の節目には、ご自身の信念を正確に国民に伝えている。そこを読み取るべきである。
平成3(1991)年以後、平成29(2017)年までの戦没者追悼式のおことばを検証していくと、平成6(1994)年までは基本的には同じ内容であり、一部の表現が異なっている。たとえば「感慨はつきることがありません」が、「つきることのない悲しみを覚えます」といった具合である。ところが戦後50年に当たる平成7(1995)年にその内容は大きく変わっていった。そこに次のような表現が用いられたのであった。
「終戦以来すでに50年、国民のたゆみない努力によって、今日の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時を思い、感慨は誠に尽きるところを知りません。ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民とともに、戦陣に散り、戦禍にたおれた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の発展を祈ります」
この戦後50年のおことばは、これまでといくつかの違いを持っている。前段にある「深い悲しみを新たにいたします」という表現は初めて用いられた。戦後の復興もまた「苦難に満ちた往時を思い、感慨は誠に尽きるところを知りません」と言われた後に、「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民とともに、戦陣に散り、戦禍にたおれた人々に対し」と続けるのである。歴史を顧みと言い、そして戦争の惨禍が繰り返されぬことを祈念するとの強い意志が読み取れる。
この年は戦後の節目にも当たり、村山談話が出されたが、村山談話は、かつての日中戦争・太平洋戦争が侵略であることを認めて反省するとの内容でもあった。天皇のおことばはそこまでは踏み込んではいないが、しかし初めて用いられた「歴史を顧み」という表現はこれまでとは異なって、単に過去という表現より歴史という分野での認知された史実といった意味を伴っている。天皇は何か強い歴史上の想いを訴えたかったのかもしれなかった。この戦後50年のおことばはその後も続けて用いられた。戦後51年に当たる平成8(1996)年はこれとまったく同じであった。1カ所だけ異なっていたが「戦禍にたおれた人々を心から追悼し」となっていて、「追悼の意を表し」という表現よりも追悼の意味を強めている。
天皇のおことばは、わずかな文字、あるいは同じ意味を持つ語にせよ、その意味を分析していくと、ご自身のお気持ちを戦没者や遺族に対して率直に伝えようとしていることがわかってくる。

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