サンデー毎日

趣味・文芸・エンタメ
イチオシ
2020年6月14日号
評伝・志村けん〝バカバカしさの極致〟を生んだ「2時間の沈黙」=江戸川大教授・西条昇
loading...

コロナ禍はいったん落ち着き、緊急事態宣言は解除されたが、志村けんさんは帰ってこない。46年にわたってお茶の間に笑いを届けてきた陰で、たゆまぬ努力を続けたそぶりも見せず、「希代のコメディアン」を全うした。交流のあった評論家が、人生を照射する。

志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったのは3月29日。これまで数々の追悼番組や、所属事務所がアップする爆笑コントを観るにつけ、いまだ志村さんが亡くなった実感がわかないままでいる。

「東村山音頭」のヒットに始まり、加藤茶とのヒゲダンス、「♪カラスの勝手でしょ〜」、バカ殿様、ひとみ婆(ばあ)さん、「アイーン」などなど。代表的なギャグやコントを挙げればキリがない。コントに生涯を捧(ささ)げた人生だった。

1950年、現在の東京都東村山市に生まれる。68年2月、高校卒業を間近に控えた志村さんは、コント55号(*①)か、ザ・ドリフターズ(*②)のどちらに弟子入りするかを迷った末、笑いと音楽両方の要素があるドリフを選んだ。リーダー、いかりや長介の自宅を訪ね12時間粘ったのは有名な話。

かくして志村さんは付き人の一人に迎え入れられる。その後、ドリフのメンバーで、「ハゲ」をいじられ、「なんだ、バカヤロ」「ディス・イズ・ア・ペン!」と、ふてぶてしく開き直る芸風で人気だった荒井注が74年3月末で脱退すると、同年4月から正式にメンバーとなった。

69年10月に始まった、ドリフ主演の「8時だョ!全員集合」(TBS系)は、たちまち視聴率40%超えの〝お化け番組〟となり、当時の子どもたちを夢中にさせていた。私も小学校低学年の頃からテレビで観るだけでは飽き足らず、公開生放送や劇場でのドリフのショーに足を運んだものだ。

私が初めて志村さんの存在を知ったのは、まだドリフの正式メンバーになる前の72年、付き人仲間と結成した「マックボンボン」のコントであった。東京・浅草の国際劇場だったと思う。55号をもっと激しくしたようなドタバタコントで、志村さんが立ったまま、高く上げた足の裏で相方の頰をスパーンと蹴り、かかと落としのようにツッコミを入れる切れ味に驚いたのをよく覚えている。

その才気は鮮烈だったが、いざ「全員集合」に出てみると、長髪の志村さんは2年ほどキャラが定着しない印象だった。体を張って熱演すればするほど空回りしていたのだ。

潮目になったのは76年3月。「少年少女合唱隊」のコーナーで、出身地にちなんだ「東村山音頭」を歌おうとする志村さんをいかりやが止めると、客席の子どもたちから「歌わせろ〜!」との声が飛んだ。股間から白鳥の首が突き出たバレエのチュチュや左右の乳首の部分だけ丸く繰り抜かれた〝変態チック〟な衣装で「イッチョメ、イッチョメ、ワ〜オ!」と叫ぶ姿には自信が溢(あふ)れていた。

それからは、「ちょっとだけよ」などで絶大な人気を誇った加藤に代わり、一人だけ取り残された時に後ろからお化けが出てくるギャグを任された。「志村、うしろ、うしろ〜!」は、その時の志村さんに感情移入した子どもたちが思わず叫んだ言葉だ。

うさぎとマツコの人生相談
週刊エコノミストOnline
Newsがわかる
政治・社会
くらし・健康
国際
スポーツ・芸能
対談
コラム