サンデー毎日

対談
艶もたけなわ
2019年6月 9日号
残間里江子 プロデューサー
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阿木燿子の艶もたけなわ/254

歌手・山口百恵さんの自叙伝『蒼い時』(集英社)。1980年、百恵さんが芸能界を引退するタイミングで発表され、昭和を代表するベストセラーになりました。本書の企画主である残間里江子さんは、私生活では1児のシングルマザーとして話題に。人生の重要な節目でどのように判断を下してきたのか、洗いざらい語ってくださいました。

◇父親は誰かと世の中が騒いだ。おむつ業者に化けて来た記者もいました。

◇あの時、すでに高齢出産だったでしょう?それも初産で、よく決意なさいましたね。

◇元夫と離婚で揉めていて。子供でもできたら諦めてくれるかなと、突然、思ったんです。

阿木 私、残間さんで思い出すのは、残間さんが編集長をなさっていた『Free』(平凡社)という雑誌で風俗のルポルタージュをやらせて頂いたこと。

残間 京都のデラックス東寺というストリップ劇場に行って頂きましたよね。

阿木 そう。私にとって、女性の裸身を見るのは初めての経験で。

残間 最近はストリップ劇場に若い女性客が増えているんですって。今の社会に生きづらさを感じている女性たちがストリッパーの女性に共感しているようです。

阿木 えっ、そうなんですか?

残間 おじさん達が照れ臭そうに俯(うつむ)いて、若い女性達が花束を踊り子さんにあげているの。阿木さん、デラックス東寺では、とても真剣にご覧になっていたでしょう?

阿木 女性は同性の秘部を見ることがないから、凄(すご)いインパクトで。

残間 それと、あのシリーズでは浅草のいわゆるソープランドとか韓国のキーセン(注)パーティーというようなところにも行って頂きました。

阿木 そう、海を越えての風俗ルポルタージュだったから、とても印象深い。

残間 そういうところに行って取材記事を書いても、下品にならない女性といったら阿木さんしかいないと思ってお願いしたんです。そうしたら快諾してくださって。

阿木 私、好奇心が強い女なもので(笑)。キーセンパーティーには、女性は滅多(めった)に入れないでしょう? 宴会場みたいな所でお相手のキーセンが付くんだけど、もう至れり尽くせりで。トイレに立つとおしぼりを持って待っててくれるし、担当のキーセンから聞いた話だと、トイレが近いお客さんは大歓迎だって。その間、彼女達が休めるからって。だから私、喜ばれて(笑)。それにつけても風俗のルポに女性を起用するあたり、残間さんは流石(さすが)にプロデューサーだなと。

残間 でも、それは多分に、私の興味だったのかもしれません。私自身、覗(のぞ)いてみたいけれど覗けない。他の女性もそうなのではないかと思いまして。

阿木 今でも、凄く貴重な経験をさせて貰(もら)ったな、と思ってます。あの時、残間さんはいくつ?

残間 33歳です。

阿木 じゃあ『蒼い時』は?

残間 30歳ですね。

阿木 『蒼い時』は山口百恵さんが引退なさる時に出された自伝的エッセーだけど、それをプロデュースなさったことで、残間さんは一躍、時の人でしたよね。

残間 百恵さんとの出会いは、本当に大きな出来事で、自分の仕事では"奇跡の3部作"の一つなの。後の二つは、今お話が出ていた『Free』の編集長をやらせて頂いたこと。残る一つは、各界で活躍していた女性105人をパネリストにお願いして、10日間連続のトークセッションができたこと。

阿木 そもそも、百恵さんとのご縁って?

残間 私がシャンソン歌手の金子由香利さんのコンサートのお手伝いをしていた時、百恵さんも金子さんのファンと聞いたのでコメントをお願いしたんです。普通は口でコメントを言うのに百恵さんは自分の万年筆をとり出して金子さんに対する思いを紙に書いてくれたんです。その時「もしかしたら、書くことが好きなのかも......」と、思ったんです。

阿木 プロデューサー的な勘ね。

残間 百恵さんは翌年の3月に婚約発表をして。でも、その時は本のプロデュースをするなんて夢にも思っていなくて。ただ私、ちょうど会社を設立しようとしていたので、グリーティングカードに「ご婚約、おめでとうございます。もし百恵さんが引退なさらなかったら、どこかで仕事をご一緒できたかもしれませんね」と、読んでは貰えないと思いながら書いて出したんです。そうしたら百恵さんから手紙が届いて。

阿木 直筆で?

残間 ええ、私も驚いてしまって。手紙には、「引退に際して、40社くらいから本を出さないかというオファーが来ているのですが、出版するとしたら、自分の手で書きたいので、手伝って頂けませんか」って。

阿木 じゃ、あれは正真正銘、百恵さんがお書きになったの?

残間 はい。百恵さんは仕事の合間を縫って、ウチの事務所で原稿を書いていました。それも、1DKの狭い部屋で。原稿は全部で760枚くらいあったんですよ。その中の270枚を使いました。

阿木 当時の百恵さんのスケジュールって殺人的で、よくそんな時間を捻出できましたね。

残間 引退まで、コンサートのスケジュールもびっしりでしたよね。

阿木 そう、レコーディングは、通常の仕事を終えてからだから、いつも夜でしたもの。

残間 全国を引退公演するさなか、北海道の稚内のホテルに原稿を取りに行った時は、百恵さんが2回公演を終えてホテルに帰って来るともう深夜の1時くらいで。そこに私が待ち構えていて、一緒に原稿校正をするのですが、気が付くと朝になっちゃう。でも、百恵さんは疲れた顔も見せずに、次の公演地に行くんです。

阿木 本当に当時の百恵さんは、体力気力とも人間離れしていた。

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