サンデー毎日

対談
艶もたけなわ
2019年5月26日号
柳澤愼一 俳優
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阿木燿子の艶もたけなわ/252

今年87歳を迎える俳優・柳澤愼一さんは、1952年、戦後初の学生ジャズ歌手としてデビュー。東京・有楽町の日本劇場(日劇)に100日連続で出演して人気を博し、近年は、映画「メゾン・ド・ヒミコ」「ザ・マジックアワー」などでも存在感を示しています。このたび61年ぶりに映画に主演。ご自身の「戦後史」とともに語っていただきました。

◇主演をお引き受けするに当たって、「遺言のつもりで」と申し上げたんです。

◇ボランティアにのめりこんだのは、戦争孤児との出会いが一番大きかった?

◇冷たくて足の裏を着けられず跳びはねる姿が目に焼き付いてしまって。

阿木 柳澤さんが61年ぶりに主演なさった映画「兄消える」、拝見しました。今日、こうしてお目にかかった印象もそうですが、画面の中のお姿があまりに若々しいので、びっくりしました。

柳澤 そうですか?

阿木 体形がスリムでいらっしゃるし、とくに画面では身のこなしが軽やかで。

柳澤 足が悪いもんですから、本来は杖(つえ)を使わなければいけないのですが、僕の役の兄貴の性格からして、ちゃらんぽらんな感じは杖が無いほうがいいだろうと考えまして、ちょっと無理してしまいました。

阿木 歩くシーンが結構、ありましたよね。

柳澤 鼻歌まじりにステップを踏んだりとかね。それで足にかなり負担が掛かったらしく、右足首から先に血液が流れなくなって、大変でした。それにもともと腰椎(ようつい)、頸椎(けいつい)の椎間板(ついかんばん)ヘルニア、股関節の脱臼と、もう病気のデパートのようになっているので。

阿木 じゃ、撮影中、足がかなり浮腫(むく)んだのでは?

柳澤 靴下が破ける状態までになって。脱疽(だっそ)(注)になりかけているから、指を切らなくてはいけない、みたいなところまでいっちゃって。

阿木 まぁ、それは大変でしたね。

柳澤 抗生物質が効いたので、事なきを得ましたが、一時はどうなるかと思いました。それにかなり痛かったもので、グッと歯を食いしばって耐えていたら、歯が3本抜けちゃったんです。

阿木 えー、また、それは!

柳澤 野球の王貞治さんが現役を引退なさる時、まだジャストミートできる力をお持ちなのに、「奥歯が駄目になったから、引退の時期が近づいたなと思った」というようなことをおっしゃっていたのが記憶に残っておりまして、「あー、こういうことだったんだな」と改めて思いましたね。

阿木 そうでしたか。でも、本当に画面の中では、そんなことは微塵(みじん)も感じさせない軽妙な演技で。

柳澤 そう言って頂くと、とても嬉(うれ)しいです。

阿木 そもそも柳澤さんが、このお仕事を引き受けようと思われた動機って?

柳澤 ひとえにプロデューサーが熱くオファーしてくださったからなんですが、僕はお引き受けするに当たって、じゃ「遺言のつもりでやらせて頂きます」と申し上げたんです。この年齢になりますと、例えて言うなら6畳一間の棚の上の、今にも落ちそうなガラクタみたいな。僕らのような年寄りは、そのガラクタに等しい状況で晩年を生きているわけで。

阿木 ずいぶん生き生きとした"ガラクタ"でいらっしゃる(笑)。

柳澤 いえいえ。そんな状況の中で、このままじゃいけない、青空市場でもいいから、そこに並べられる"骨董(こっとう)品のまがい物"くらいに言われなきゃ、っていうふうに思ったんです。

阿木 こうしてお話を伺っていても、本当によく響く美声で。もともと柳澤さんはジャズ歌手でいらっしゃる。

柳澤 まぁ、戦後の娯楽の無い時のジャズですからね。街に出れば銀座と言わず、新宿と言わず、朝から夜までジャズが流れている。だから耳慣れていただけで、僕はとくにジャズの勉強をしたわけじゃないんです。

阿木 もともと歌手になろうとは?

柳澤 まったく。人前で歌ってお金を稼ぐなんて、これっぽっちも考えたことはなかったですね。

阿木 "運命の悪戯(いたずら)"って感じでしょうか。

柳澤 こんな言い方をすると大変、無責任に聞こえるかもしれませんが、最初から歌手は3年で辞めて、学校に戻ろうと思っていたんです。

阿木 何と欲の無い(笑)。当時、学生さんでジャズを歌う方って、珍しかったんじゃないんですか?

柳澤 「戦後初の学生ジャズシンガー」とは言われましたね。振り返ってみれば、子供の頃は僕もそれなりに、軍国少年だったんです。でも日本が戦争に敗(ま)けて、価値観が一変してしまい、終戦を機に、思い切って何か新しいことをやってみたくなり、代々木の共産党の地下組織に入ったんです。

阿木 また過激なところへ(笑)。

柳澤 戦後、若者達が共産主義に憧れた時期があったんですが、実際に中に入ってみたら、彼らが述べていた理想とはほど遠くて。

阿木 現実に直面して、幻滅なさった?

柳澤 そうなんです。気持ちをひとつにするには関係を持たなければ、なんて言って女性を口説いている党員を見て、がっくりきましてね。僕、それまで都立の高校に通っていたんですが、環境を変えようと、思い切ってミッションスクールの青山学院に転校したんです。

阿木 その青山学院が、その後の柳澤さんのボランティア活動の原点になるんですね。

柳澤 青山学院にはチャペルがありまして、毎週日曜日に僕、教会に通うようになったんです。

阿木 共産党から、いきなりキリスト教へ。ずいぶん振り幅がお広い(笑)。

柳澤 まぁ、親もびっくりしてましたけど(笑)。教会に通うようになったら、先輩達が「今度はあれを持っていってあげましょう」とか喋(しゃべ)っているんです。

阿木 施設に物資を援助する相談をなさってた?

柳澤 そうなんです。老人ホームとか、戦争孤児の面倒をみる施設に、何を運ぼうか相談していて。僕は新入りだったんですが、連れて行ってもらったんです。行ってみてびっくりしましたね。施設とは名ばかりで、冬なのに窓硝子(ガラス)が割れているものだから、からっ風がヒューヒュー入ってきて。廊下なんて凍てつくように冷たいんです。そこを孤児達が兎(うさぎ)のようにピョンピョン跳びながら歩いてるんです。冷たくて、まともに足の裏を着けられないもんだから。それを見て、僕はショックを受けて。

阿木 どれほど冷たく、寒かったか......。

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