サンデー毎日

コラム
青い空白い雲
2025年7月13日号
ありがとう! 日本を変えた筋萎縮性側索硬化症の舩後靖彦議員
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牧太郎の青い空白い雲/991

 昭和521977)年のちょうど今ごろ、タレントの八代英太さんから「相談に乗ってくれ!」という電話をもらった。八代さんは日本テレビの「お昼のワイドショー」に出演していたが「まったく知らない人物」。戸惑った。東京・板橋の自宅に行くと「牧さんの『芸能界 裏の裏』の愛読者です。それだけの縁で恐縮ですが......私、国会議員になりたい。どうしたらよいのか教えてください」と言う。

 八代さんは、197363日、愛知県刈谷市の市民会館での「畠山みどり歌謡ショー」に司会として出演。モノマネを始めようとマイクから後ずさりした時、せり舞台の穴(奈落)に転落。約5㍍落下して脊髄(せきずい)損傷の重傷を負い、下半身不随。車椅子生活になった。

「身体障害者の声を国会に届けたいんです」。「応援する仲間はいるんですか?」と聞くと、隣の部屋から、2人の「仲間」が現れた。1人は彼の故郷・山梨の同級生の広告マン。もう1人は、黛ジュンが歌ってヒットした「雲にのりたい」を作詞した大石良蔵さん。大石さんも「車椅子」だった。彼の参院選出馬を応援することになった。記者会見をセットして、『毎日新聞』に「車椅子党、誕生!」と書いた。選挙中は八代さんに密着した。大石さんが工務店社長として元気だった頃の「5人の愛人」が、仲良く選挙事務所を切り盛り。

 そして77710日の参院選全国区の投開票日。新聞は「泡沫(ほうまつ)候補」と書いたが、無所属の八代さんは約84万票を獲得し当選。大石さんは議員秘書になった。当選後、2人は(今より厳しい)車椅子に対する「バリア」(障壁)をなくすために全力を注いだ。僕が命名した「車椅子党」の奮闘は、小さいけれど国会史に残る出来事だった(その後、八代さんは「福祉党」と名乗り、最終的には「政策実現のために」自民党に入り、意見が分かれた大石さんは秘書を辞めた)。

 今から6年前、もっと劇的なことが起きた。参院選で「れいわ新選組」から、重度の身体障害のある2人が立候補。筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の舩後靖彦さんが比例区特定枠1位、脳性麻痺(まひ)の木村英子さんが同2位当選した。

 2人は「命の価値は横一列」を訴えた。全身麻痺で人工呼吸器が必要な舩後さんは死ぬか生きるかの瀬戸際で、事前に入力した文章を自動音声で読み上げる形で質問した。誰も気づかなかった「定員割れなのに不合格になる」公立高校の定員内不合格問題を5回以上も質問。22年度に始まった文部科学省の全国実態調査のきっかけをつくった。2人の存在で(八代さんの時より)ハード、ソフトで国会のバリアフリーも進んだ。

 その舩後さんが「次の世代に託したい」と引退する。世の中は(徐々にではあるが)「障害者にとって平等な舞台」になりつつある。舩後さん、ありがとう!

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