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2023年11月26日号
芸能 島田洋七が本で明かした"がばい交友"の裏面史
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お笑い界の重鎮・ビートたけしらと1980年代の〝漫才ブーム〟をけん引した漫才師の島田洋七(73)の新刊『お笑いがばい交友譚』(日本ジャーナル出版)が刊行された(11月6日発売)。新刊は『週刊実話』での連載「お笑い〝がばい〟交遊録」を書籍化したものだ。

 本の帯には2011年に芸能界を電撃引退した島田紳助の「洋七兄さんに憧れて入った芸能界 この人の弟弟子でよかった そして出会えてよかった」と熱いメッセージが寄せられている。

「一般にはあまり知られてませんが、紳助さんは洋七の弟弟子で、彼が引退後も頻繁に連絡を取り合って、今回の出版に関しても喜んで協力してくれたそうです」(お笑い関係者)

 80年代は洋七の「B&B」、ビートたけしの「ツービート」、「ザ・ぼんち」らの漫才師が第1次漫才ブームをけん引した。ブームが起こる前は漫才師やお笑いタレントは人気歌手のコンサートの前座を務めていた。

「漫才師は歌手より格下だった。それがブームで逆転。洋七はフジテレビ系の『笑っていいとも!』の前身、『笑ってる場合ですよ!』のMCだった。当時はビートたけしより売れていました」(芸能ライター)

 洋七の盟友のたけしは86年12月に「フライデー襲撃事件」を起こして芸能活動を謹慎。その後、復帰したところ、右翼団体から「復帰が早すぎる」と抗議行動を起こされたことがきっかけで、当時所属していた「太田プロダクション」から独立。88年に「オフィス北野」(現・TAP)を設立。映画監督として〝世界のキタノ〟と呼ばれ、現在に至っている。

「たけしと洋七は漫才ブームを築いた戦友のような仲。たけしは、フライデー襲撃事件を起こして芸能活動を謹慎中、マスコミの目を避けるために石垣島に隠れていた。たけしは真剣に引退を考えていた。その時に忙しい合間を縫って石垣島に飛んでたけしを励ましたのは洋七。今、たけしがあるのは引退を思いとどまらせた洋七のおかげです」(前出の芸能ライター)

 今回、出版される本にはその時のエピソードについても語られている。一方、浮き沈みが激しい芸能界。洋七はあっという間に人気凋落(ちょうらく)。見かねたたけしが洋七に自叙伝の出版を勧めた。それが、空前の大ベストセラーになった『佐賀のがばいばあちゃん』だった。

「その頃、洋七は吉本興業に出戻っていた。当時、吉本の専務だった大﨑洋氏(のちに会長就任、今年の6月に退社)から出版印税について〝1円でもいいからうち(吉本)に印税を入れてくれたらいいんやけどな、それでないと他のタレントへのしめしがつかない〟と言われたんですが、洋七が拒否したことで吉本との関係が悪化したんです」(元吉本関係者)

 07年8月に洋七は吉本を退社、テレビの仕事は激減。洋七は講演会を精力的にこなし、今や〝講演会の帝王〟とまで呼ばれるようなったが、テレビ界からは干されたままだ。洋七は「もう一度、花月(吉本興業のホームグラウンド・なんばグランド花月)に出たい」と熱く語っている。洋七が花月の舞台に復帰することを期待したい。(本多 圭)

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