第95回記念選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催)は桜満開の4月1日、快晴の阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で決勝が行われ、山梨学院(山梨)が報徳学園(兵庫)を7―3で破り、春夏通じて初めて山梨県に優勝旗をもたらした。エースで6戦を投げ抜き、強打も見せた林謙吾(3年)も見事だった。一方、劇的な試合を続けて勝ち進みながら、決勝では「逆転の報徳」の再来はなかった。
「逆転の報徳」といえば、まず甲子園初出場だった1961年夏の選手権だろう。1回戦で倉敷工(岡山)に延長十一回に6点を奪われながら、直後に追いついて十二回にサヨナラ勝ち。春は64年が初出場で、74年には、蔦文也監督が率い部員11人で「さわやかイレブン」と称された池田(徳島)を、決勝で破って初優勝した。
ちなみに報徳は甲子園と同じ西宮市にある。そして、筆者も西宮育ち。74年春の決勝の時は、戦前に甲子園に出た市内の別の高校の3年生だったが、甲子園のスタンドで報徳を応援していた。さかのぼれば、報徳は67年夏の1回戦で大宮(埼玉)に、今なお夏の甲子園で唯一の「サヨナラホームスチール」を決めている。この時、西宮は大騒ぎだった。95年の阪神大震災の直後のセンバツにも報徳は出場。既に筆者は社会人となり、当時の永田裕治監督が率いる報徳を取材した。なお、永田氏は81年夏に報徳が後に近鉄で活躍する金村義明(現野球解説者)を擁し、初の全国制覇した時の右翼手。2002年春にはエースの大谷智久(現ロッテ2軍チーフ投手コーチ)を擁しての2度目の春制覇を果たす。筆者はこの時、野球少年だった息子と、その友達を連れて観戦した。
報徳の甲子園での優勝は春2回、夏1回。だが、華々しい戦績だけにとどまらず、節目での出場や劇的な戦いぶりも合わせ、西宮、さらには甲子園で特別な存在なのだ。
そして、センバツ3度目の決勝。先攻だったことに少し嫌な予感がした。山梨学院のボークなどで2点を先取したが、報徳にサヨナラ勝ちはない。五回裏に5連打などで2―5と逆転されると、リリーフも本塁打を浴びて計7失点。その後に1点は返したが、大角健二監督は「継投のタイミングを誤った」と悔やんでいた。
筆者が取材でお世話になってきた、01年に11人が死亡した明石歩道橋事故の遺族会の下村誠治会長(64)も報徳野球部OBの一人だ。センバツ初優勝の直後に入学し、「入学式で優勝旗が飾られていた。今回は昨年の春と夏の王者を倒したのに残念。でも、体力をつけての今後が楽しみです」と後輩たちをたたえた。
確かに、今大会の報徳は初戦で健大高崎(群馬)に逆転勝ち。2戦目はセンバツで最多5回優勝の東邦(愛知)にサヨナラ勝ち。準々決勝は昨夏覇者の仙台育英(宮城)に延長十回に逆転サヨナラ勝ち。準決勝は昨春覇者の大阪桐蔭(大阪)を相手に5点差をひっくり返して逆転勝ち。伝統の勝負強さを見せつけた。
4番・石野蓮授の強打、主将で捕手の堀柊那の強肩、遊撃手・竹内颯平の堅守は秀逸だった。夏の甲子園では決勝後、「はろばろひらく武庫の野や」の校歌が聞きたい。
(粟野仁雄)