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2023年4月 2日号
地方 高校野球で122―0で大敗した青森「深浦」の閉校が問う課題
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 長年の少子化傾向で全国的にいくつもの高校が閉校していくなか、日本海に面する青森県深浦町(人口約7300人)の県立木造高校深浦校舎(旧深浦)が、2022年度いっぱいで閉校となった。1998年夏、全国高校野球選手権青森大会で、深浦高野球部は122―0の記録的大敗を喫し、全国的にその名を知られるようになった。

 大敗直後は、野球部のみならず学校全体を地域一体で盛り上げようという機運も高まり、2007年に校舎(分校)化された後にも野球部は指導体制が充実し、「あわよくばセンバツ21世紀枠に」と期待された時もあった。しかし、継続して支援する態勢はとられず、野球部は衰退、学校全体も縮小、最後は2年続いて新入生が定員(40人)の半数未満となったため県の方針で20年秋に閉校が決まった。

 3月3日、朝には舞っていた雪もやんだ午後1時、最後の卒業式が始まった。日本海を見下ろす高台に位置する同校の敷地は県内高校の中でも有数の広さを誇り、野球グラウンド、サッカー場、300㍍トラックが重ならずに収まるほどだ。体育館も新旧二つある。

 これらは、老朽化した3階建ての旧校舎も含め徐々に使われなくなっていったが、最後まで手入れは行き届き、卒業式の会場となった体育館の床は、窓から差し込む光を反射していた。広いフロアに2列で並んだのは卒業生男子3人と女子11人。このうち12人は4月から地元を離れる。大瀬雅生校長から一人ひとり卒業証書を受け取り、地元消防へ就職する小角匠斗さんが答辞を読んだ。

 終戦から3年後、戦地から引き揚げて来た若者たちに教育の機会を作るため、深浦は県立鰺ケ沢高校定時制分校として開校。1957年に深浦町立の深浦として独立すると、やがて「県立にしよう」という声が地元であがる。69年には軟式野球部が県高校総体で優勝したこともあり「県立高校ができるのは地元の子どものためにもなる」と、新校舎の候補地にあげられた土地の所有者たちも無償で用地を提供、その結果70年に県立となった。

 数年後、生徒数は500人ほどまでに増えた。しかし、ここをピークに減りはじめ86年には硬式野球部が誕生したものの皮肉にも生徒減は顕著となる。野球部の力も徐々に低下、甲子園では松坂大輔が活躍した98年夏、部員10人(うち1年生6人)の深浦は東奥義塾に大敗を喫する。その後、力をつけた時期もあったが最後は部員1人になり、2019年を最後に廃部、学校も閉校に至った。

 生徒数の減少が根本的な理由だが、全国的には島根県のように郡部の小さな高校が、全国から生徒を募り存続に成功している例がある。しかし青森県は他県と比べそうした面で消極的だった。その一方で小さな学校ゆえ卒業生や保護者の力も弱く、臨時講師が専門外の教科を教えざるを得ないなど都市部の高校ではあり得ない教員配置面での〝しわ寄せ〟(公教育の中での不公正)も被ってきた。

 さらに、実質的には町の子どもが通う「町の学校」なのに地元も同様に存続のアイデアを出せなかった。こうなるといったい誰が子どもの教育上の利益を守るのか。深浦校舎の終焉(しゅうえん)は、過疎地の高校の生徒の利益は誰がどう守るのかを、過疎と少子化という古くて新しい問題の中で突き付けている。

(川井龍介)

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