今年7月1日、自衛隊発足から70年の月日を迎えた。警察予備隊を前身とし、戦後10年も経(た)たずして、「専守防衛」を目的とした日本独自の「軍隊」が組織された。しかし、その「防衛」の概念は拡大の一途をたどっている。
1992年の「PKO協力法」、2001年の「テロ対策特別措置法」、14年には安倍内閣のもと「集団的自衛権行使の限定容認」が国会の議論を経ずに閣議決定され、翌15年には「安保関連法」が成立した。こうした路線を引き継ぐ岸田内閣は、22年に「国家安保戦略」を改定し、反撃能力の保有を決定。そして23年末には「防衛装備移転三原則」とその運用指針を改定、「殺傷能力のある武器」の輸出が解禁されることとなる。
「あそこがテンノウヘイカの洞穴です」。そう話すのは、太平洋に浮かぶ小さな島国、東ティモールの住民だ。第二次世界大戦が勃発すると、日本軍はオーストラリアとの最前線という戦略的位置にあるティモール島に侵攻、1万以上もの兵力を投入した。3年半にわたる占領期間中、過酷な建設労役や食糧難により、約4万もの現地住人が犠牲になったといわれている。
島には今も日本軍のトーチカや壕が残されており、前述の「テンノウヘイカの洞穴」もそのひとつだ。近隣住人に「テンノウヘイカ」と呼ばれる軍人が、森の奥の洞窟に終戦まで立てこもっていたというのだ。ほかにも「タイチョウ」という言葉や、日本語での数字の読み方、「カタナ」「コラ!」などの言葉を覚えている人々にも出会った。
当時の体験を語れる人々は年々少なくなっているが、当時4、5歳だったというペドロ・コウティーニョさんはかつての経験をこう語る。
「夕方になると灯(あか)りを消すようにと言われていました。日本軍を狙うオーストラリア軍の空襲があるからです。そうした時は、森の中や、豚小屋に身を潜めていました。私はまだ幼かったのですが、兄たちが日本軍の労働に駆り出されていました。壕を掘らされていたようです。壕を掘ったあと、その存在を秘匿するために、労働者たちを皆殺しにしたという話も耳にしたことがあり、兄たちも恐れていました」
実際に、飛行場建設に駆り出されてそのまま殺されてしまった人々や、過酷な労働により命を落とした人もおり、東京裁判(極東国際軍事裁判)では、東ティモールにおける残虐行為の証拠が提出されている。
また、日本軍は他の多くの侵略地と同様、「慰安所」を設置し、性暴力をふるっていた。イネス・デ・ジェススさんは既に齢(よわい)90を超えている。当時まだ10代の少女だったジェススさんだが、昼間は重労働に駆り出され、夜になると日本兵が代わる代わるやってきては、性行為を強要されたという。
こうした暴力は、ある日突然生じたわけではない。戦争に向かう「大義」が人倫を破壊し、今に至るまで多くの人々を傷つけている。軍備の増強や運用の改定ではなく、過ちを繰り返さないため、過去の加害に目を向ける必要があるだろう。
(佐藤慧)
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◇さとう・けい
1982年生まれ。フォトジャーナリスト。メディアNPO「Dialogue for People」代表理事。著書に『しあわせの牛乳』など