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2023年12月24日号
経済 三井住友FG社長65歳で死去 思い起こされる宿澤氏の急逝
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 三井住友フィナンシャルグループ(FG)社長の太田純氏が11月25日、膵臓(すいぞう)がんのため死去した。享年65。メガバンクトップが在職中に亡くなるのは、これまでに例をみない。三井住友FGは「コンティンジェンシープラン」(危機対応計画)に基づき後任社長の人選を急ぎ、中島達(なかしまとおる)副社長(60)が12月1日付で社長に昇格する人事を決めた。

「中島氏はかねてポスト太田氏の最有力候補で、太田氏が3期6年を務め上げた2025年を待って、社長に昇格するとみられていた」(三井住友関係者)とされる。急な形となったが、中島氏が社長に就任したことで社内の動揺は最小限に抑えられた格好だが、それでも波紋は金融界全体に広がっている。「銀行員ががんを患うケースは少なくないが、メガバンクのトップがいかに激務であるのかを改めて痛感させられる出来事だった」(メガバンク幹部)というのが金融界の共通した見方だ。

 中でも旧住友銀行員の働きぶりはハードで、「バブル期から1990年代にかけてのことだが、夜の会合を終えてタクシーで東京・大手町を通過する時、旧住友銀行の本店だけが深夜でも明々と電気が灯(とも)っていたことを思い出す」と、ある官僚は振り返る。太田氏も旧住友出身で、若い頃から仕事に明け暮れていたようで、社長になっても「僕はあまり寝なくても大丈夫なんです」とも語っていた。

 三井住友にとって現役幹部の急死は今回が初めてではない。2006年6月17日に突然死した宿澤広朗氏のことは今も金融界で語り草になっている。当時、取締役専務執行役員だった宿澤氏は、仕事を終えたその足で赤城山に向かい、登山中に心筋梗塞(こうそく)を発症し、搬送先の前橋市内の病院で亡くなった。55歳だった。

 銀行員でありながら、ラグビー日本代表や母校の早稲田大のラグビー部監督も務めた宿澤氏。激務の銀行業務をこなしながら、土日や有給休暇を使って二足の草鞋(わらじ)を履いた。筆者も頭取候補でもあった宿澤氏が大塚駅前支店長であった時代にお会いしている。当時、早大ラグビー部監督に就いていた。取材の最後に握手したが、小柄ながら元スクラムハーフらしく手のひらが非常に大きく、握力の強さには驚かされた。

 太田氏も高校までバスケットボール部で活躍した。京都大では腰を痛め、アメリカンフットボール部を1年で退部したが、体力には人一倍自信があったようだ。常に念頭にあったのは「近い将来、銀行という名前はなくなるだろう」という強烈な危機意識だった。

 太田氏は社員に向け、ビル・ゲイツ氏の言葉「銀行の機能は必要だが、銀行は必要か?」と発し続けた。銀行はなくなってもニーズは残る。本当に顧客が必要としているものを提供するにはどうしたらいいかを考え続け、「夢を持って頑張る人を応援したい。銀行はその舞台を提供する」というのが口癖だった。「社長製造業」と銘打ち、若手・中堅社員を社内ベンチャー事業の社長に抜擢(ばってき)したのもこうした思いからだ。宿澤、太田の両氏が心血を注いだ三井住友の伝統は、中島氏に受け継がれよう。

(森岡英樹)

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