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2023年10月29日号
金融 りそなHDが初の「社史」発刊 公的資金注入からの再生の道
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 りそなホールディングス(HD)は9月、初の社史『りそなグループ 20年のあゆみ 変革への挑戦』を発刊した。社史の「発刊の辞」で南昌宏社長は、「2003年5月17日、我が国初の金融危機対応会議が開かれました。りそなグループに対し預金保険法第102条第1項第1号に基づく公的資金の注入が決定された日です。グループのそれまでの歴史は変わり、今日につながる『変革への挑戦』が始まった日でもあります」と記している。

「5・17」。この日、りそなは臨時取締役会で2兆円規模の公的資金注入申請を決めた。ともに、経営責任を明確にするため、当時の勝田泰久社長ら5人の経営陣が辞任した。

 社史では、この公的資金注入までの経緯を詳述している。最大の焦点は02年3月期の繰り延べ税金資産を巡る新日本監査法人との対立にあった。次のようにある。

〈将来の収益見通しに基づき計上する繰延税金資産については、りそな銀行は直近に策定した収益計画に基づき02年3月期の7092億円とほぼ同水準か微減の計上を主張したのに対し、監査法人は直近では3期連続の赤字となる状況を踏まえると現行の収益計画に基づく将来見通しは過大であると反論し、2700億円の減額を求めてきた。しかしながら、繰延税金資産を2700億円減額すると、りそな銀行の自己資本比率は、国内業務を担う銀行の最低基準である4%を割り込んでしまう。両者の主張は平行線をたどり......〉

 監査法人は最後までこの主張を変えず、りそなは公的資金の注入を決断するが、この監査法人の見解に当時、違和感を覚えたのは筆者だけではなかった。他の都市銀行の幹部もそうだった。まず「公的資金注入ありきで、りそなさんが銀行界の人身御供にさせられた」と親しい都銀幹部が語ったことを覚えている。小泉純一郎政権下で金融再生プログラムを推進した竹中平蔵金融担当相(当時)の影を感じ取っていたわけだ。

 1990年代後半から続いていた日本の金融危機に終止符を打つ。そのために大手銀行に思い切って公的資金を注入して不良債権のくびきから脱却させ、海外からの投資を呼び込む、というのが竹中氏の狙いだった。「りそなショック」と呼ばれた2兆円規模の公的資金の注入は、正にそうした竹中氏の狙い通りとなった。

 しかし、りそな再生への道は容易なことではなかった。りそなへの公的資金注入総額は90年代からの累計で3兆1280億円にのぼった。市場では「100年かけても返せない」と悲観する声が絶えなかった。その困難に立ち向かったのが社員たちと、JR東日本から会長としてりそな入りした細谷英二氏(2012年死去)だった。

 細谷氏が掲げたスローガンは「りそなの常識は世間の非常識」だった。表現は過激だが、「銀行が普通の会社になる」ということだ。社員も年収の3割もカットする前代未聞のリストラに耐えた。そして、細谷氏の遺訓を受け継いだ東和浩社長時代に、見事に公的資金を完済した。この間、りそな社員たちは心血を注いで再生にまい進した。

 りそなの社史は「真っ白」なカバーで包まれている。「5・17」から20年、正に「真っ白」な地平からの挑戦だった。

(森岡英樹)

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