永易(ながやす)克典氏が亡くなった。享年74。二つの金融機関を救った大物バンカーだった。
1970年に東大法学部を卒業し、三菱銀行に入行。経営の中枢である経営企画部門を歩み、虎ノ門支店長などを歴任した。
その後は紆余(うよ)曲折の連続だった。2000年、東京三菱銀行を一旦退職し、日本信託銀行の常務に転出した。同じタイミングで東京三菱銀の頭取になった三木繁光氏は「永易君、君の骨は僕が拾う。思いっきりやってほしい」と送り出した。本人も〝片道切符〟の転出と自覚していたようだ。
日本信託銀は当時、バブル崩壊後の不良債権に押しつぶされた状況で、経営危機に直面していた。関係者によれば、永易氏は「銀行の退職金を全て社員との飲み会に使い果たすほど、ひざ詰めで問題解決に奔走した」(関係者)。
努力は実を結んだ。日本信託銀は01年、三菱信託銀行と合併し、危機を乗り越えた。永易氏は翌年、東京三菱銀に復帰。
胆力と豪放磊落(らいらく)な人柄に引かれた関係者は多い。三菱自動車工業が経営危機に瀕(ひん)した04年、詰めかけた記者に「とんでもない話だが、精いっぱい支援する」と語り、翌年の日産自動車との事業提携につなげた。
08年には三菱東京UFJ銀行頭取に上りつめた。同年9月のリーマン・ショックの直後、米金融大手モルガン・スタンレーが経営危機に陥った。永易氏は約9000億円もの出資を決断する。
愛媛県出身の永易氏は酒を愛し、愛煙家。農林中央金庫前理事長の河野(こうの)良雄氏、東芝前社長の車谷暢昭(のぶあき)氏、岡本薫明(しげあき)前財務事務次官など新居浜市出身の経済・官界人の集まりの中心人物でもあった。
亡くなったのは5月3日。死因は頸部食道がんだった。時代を画したバンカーがまた一人この世を去った。
(森岡英樹)