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2021年1月31日号
追悼・半藤一利さん 「現代史の羅針盤」を失い、私たちは何をすべきか=保阪正康
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世代の昭和史 特別編

 ◇半藤史観の柱――実証主義と一市民の目――を護る

 戦争体験に裏打ちされた現代史の証言者・半藤一利さんが亡くなった。享年90。本誌では、保阪正康氏、青木理氏との鼎談シリーズなどに登場、戦前回帰の潮流に対し、歴史からの視点で警鐘を鳴らしていただいた。長年の同志であり継承者でもある保阪氏が、半藤さんの人と仕事をこの時代に刻み込む―。

 2020年に入って間もなくのことである。本誌で、恒例の鼎談(ていだん)を開こうとの話が進んだ。恒例という意味は、何か大きな事件や歴史の転機になるような事象が起きた時は、半藤一利さん、青木理さん、そして私の3人で鼎談を行い、問題点を抉(えぐ)ろうとの約束ともいうべき了解があった。これまでにも安保関連法の強行採決の折など3回ほど鼎談を行ってきた。コロナ禍において、社会はどう変化するのか、私たちが心すべきことは何か、歴史に何を学ぶべきか、などをテーマに存分に話し合おうというのであった。

 担当編集者のM氏は、その日程作りに3人のスケジュールを確認しようとしていた。青木さんと私は日程を作ることは可能だったが、半藤さんは一昨年8月に大腿(だいたい)骨骨折で入院、20年1月にも再手術して治療にあたっていたため、なかなか折り合わなかった。退院後もリハビリを続けるために専門の病院に入り、鼎談の機会は生まれなかった。私もリハビリ病院に見舞いに行ったのだが、半藤さんは「リハビリが辛(つら)いよ」と珍しく弱音を吐いていた。そのうちコロナの勢いが増し、鼎談なども気安くできる状態ではなくなった。私は半藤さんとは時々電話で話すだけになった。

 M氏は半藤夫妻と時に連絡を取り、コロナ禍の勢いがおさまり半藤さんの体調が良くなったら鼎談を行うべく、実際に鼎談を行う時はこういう話をと、折に触れ私との間でもテーマなどを詰めていったのであった。私はその日に備えて、半藤さん、青木さんに提示すべきコロナ時代への視点や意見を整理していた。そうして1年近くが過ぎた。結論を言えば、この鼎談は開かれなかった。

 半藤さんの死が私たちに伝えられたのである。新しい年に入って2週間、私たちは半藤さんの死を受け入れなければならなかった。現代史の語り手、その羅針盤たる先達がこの世から去ったのであった。

 1月12日の夜に連絡を受けて、その夜、私は眠れなかった。昨年12月23日に、作家のなかにし礼さんを失い、今また半藤一利さんを失うことに、私は言葉がない。2人はそれぞれの道を自らの力で切り開き、そして先頭を走っていた先達である。本誌先週号でなかにしさんの追悼文を書き、今また同様の道筋で半藤さんの追悼文ともいうべき原稿を書いている。何か時代が大きく変わるような感がしないでもない。私は半藤さんの志を継ぎたいと思う。継がなければならない重みがその軌跡にはある。その意志をもってこの一文を半藤さんに捧(ささ)げたい。

 18年の秋であったか、ある新聞での対談の後に新聞記者を交えて一献を傾けたことがあった。その記者が、「半藤さんと保阪さんはこれまで何回、対談や座談会を行ったことがありますか」と尋ねてきた。私は編集者に調べてくれないかと頼んだ。しばらくして、対談本、座談会の本などは15冊ほど刊行していることがわかった。「ついでに言うと、座談会、雑誌の対談、シンポジウム、講演での対談などを合わせると、50回くらいになると思います」と言うのであった。そう言われてみると、私は半藤さんと対談を重ねているうちに、ある一言で何を言いたいのか、容易に理解することができるようになったと気づく。

 対談の折に事前にメモを作ってくる時は、ああ今日の対談(座談)は本気だなとわかった。私は出たとこ勝負で話すタイプだが、半藤さんは本気で伝えたい時はメモが詳細であり、資料が整理されていて、私はそれに合わせてできるだけ実証的に話すことが要求された。対談相手が知識が曖昧なままに話しているのをすぐに見抜き、そういう時は「なんだ、もっと真面目に話せ。しっかり勉強してから対談に出てこい」という表情になるのであった。半藤さんの口調は、相手を批判するというより、この人とは二度と対談をしない、と決めているように感じられた。半藤さんは相手を罵倒したりはしないが、誰某(だれがし)とは対談をしないと心中で決めるようであった。

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