菅氏が信奉するマキャベリの論理
同志社大の浜矩子教授はかねて安倍晋三首相の政策や手法を「21世紀版大日本帝国づくりという下心があるアホノミクス」と数々の著書やインタビューを通じて批判してきた。安倍路線を継承するとした菅義偉首相をどう見ているのか。浜氏の緊急寄稿をお届けする。
菅義偉新首相の映像がテレビ画面に登場する度に、我が母が吐き捨てるように言い放つ言葉がある。官房長官時代からそうだった。その言葉は「奸佞(かんねい)」である。
奸佞は、「心がねじけていて悪賢いこと」を意味する。本多正純という歴史上の人物がいる。徳川家康の側近だった。この人のことを、司馬遼太郎が小説『城塞』の中で、「奸佞を絵に画いたような男」と表現している。これも母からの受け売りだ。
奸佞首相の誕生で、何がどうなっていくのか。奸佞首相は、「安倍前首相が進めてきた取り組みをしっかり継承し、さらに前に進めたい」と言った。となれば、この間、筆者がひたすら打倒対象としてきたアホノミクスも、継承されるというわけだ。ただ、アベ首相のアホノミクスから、スガ首相の経済運営に移行したのであるから、これからは「スカノミクス」という名称でいくことにしたいと思う。
スカノミクスは、どこまでスカスカか。その背後には何があるのか。アホノミクスの背後には、21世紀版大日本帝国づくりという下心があった。スカノミクスの大将の下心は何だろう。
一見したところでは、大それた下心がないことに、スカノミクスの大将の最大の特徴があるように見える。こういう失礼な言い方はしていないが、多くのジャーナリストが同じように感じているようだ。各種のメディア上に、「菅首相のビジョンが見えない」とか、「理念なき菅首相」というような言い方が登場する。
だが、奸佞なる者には、下心が付き物であるはずだ。何かを達成しようとしているから、悪知恵を巡らして悪巧みをするのである。奸佞首相の悪巧みはどのようなものか。
このように問題設定してみると、少し見えてくるものがある。自民党総裁選に向けた候補者たちの共同記者会見、そして日本記者クラブが主催した討論会の場で、菅氏は自分が基本方針として打ち出したい内容を掲げたボードに「自助・共助・公助」と書いていた(上の写真)。
まずは、自分の力で何とかしろ。それでダメなら身内に頼れ。それでもダメな時だけ、しょうがないから政策が何とかしてやる。こういうわけだ。そこには、自助能力なき者に対する限りなき侮蔑が込められている。自分で自分の面倒が見られない者どもは、二流人間、三流人間だ。そう言わんばかりである。政策の役割は弱者救済だ。だが、こんな極限的に「天は自ら助くる者を助く」的感性で政策に携わられたのでは、弱者救済どころではない。弱者切り捨てだ。
この弱者切り捨てに、奸佞首相の下心の一端があるのではないか。なぜなら、この人は、かの権謀術数の代名詞男、ニコロ・マキャベリの信奉者だ。マキャベリは、ルネサンス期の政治思想家だ。16世紀のフィレンツェ共和国で外交官を務めた。思えば、本多正純は日本のマキャベリだと言えるかもしれない。この辺を我が母が察知して、スカノミクスの大将の本性を「奸佞」と断定したものと思われる。
マキャベリの論理は力の論理だ。彼の代表的著作『君主論』は力の論理に満ちあふれている。君主たる者、いかにして権力を奪取し、権力を保持するか。敵をいかに効果的に撃破するか。いかにすれば、彼らから逆襲の余地をとことん奪い去れるか。いかにして、民衆を知らしむることなく、依(よ)らしむるか。数々の悪知恵が事細かく精緻に開陳されている。
力の論理を貫徹しようとする者にとって、自助能力なき民はひたすら足手まといだ。できる限り切り捨てていきたい。脆弱(ぜいじゃく)なる部分を可能な限りそぎ落とし、強靱(きょうじん)で効率的に機能する国家を構築する。マキャベリに及第点をもらえるような国を築き上げる。それが、奸佞首相の目指すところなのではないか。何しろ、この人は自著『政治家の覚悟 官僚を動かせ』の中で、「マキャベリの言葉を胸に歩んでいく」と書いているくらいだ。そのマキャベリ愛は、並大抵のものではない。