サンデー毎日

政治・社会
News Navi
2020年3月15日号
NEWS NAVI社会 「死の灰」から66年の第五福竜丸 伊勢や紀伊半島にも歴史の痕跡
loading...

太平洋・ビキニ環礁での水爆実験により1954年に〝死の灰〟を浴びた遠洋マグロ漁船第五福竜丸の事件から3月1日で66年。船そのものは最終的に東京都江東区の埋め立て地、夢の島に放置されたのが縁で都が引き取り、近くに第五福竜丸展示館をつくり収容した。

また、当時母港だった静岡県焼津市では歴史民俗資料館内に第五福竜丸コーナーが設けられた。が、これらとは別に紀伊半島や三重県伊勢市などにもその歴史の痕跡があり、地元で語り継ぐ人がいる。

第五福竜丸は、1947年に紀伊半島の突端に近い、和歌山県古座町(現串本町)の造船所で建造された。今ここには石碑などが建ち、串本町議会議員の仲江孝丸氏が先頭に立ってビキニ事件と第五福竜丸の歴史展を開くなどして記録をとどめようとしている。また、ここから約50キロ北東の三重県御浜町には、第五福竜丸エンジン引き揚げの地という石碑がある。

事件当時、被ばくした第五福竜丸は、国が買い上げ、56年に伊勢市にある強力(ごうりき)造船所で東京水産大(現東京海洋大)の練習船はやぶさ丸に改造された。当時、造船所創業者の強力善次氏が、被ばく船を持ち込むことへの偏見もあるなか「見捨てられない」とこれを引き受けたからだ。強力造船所はその後株式会社ゴーリキに変わったが、現在の強力修会長が今も「福竜丸と伊勢の歴史を語り継ごう」と平和運動にもかかわっている。

ところで、はやぶさ丸は11年間使用された後に廃船となり民間に払い下げられるが、エンジンだけは転売され、貨物船に付け替えられる。すると翌68年、この船が熊野灘で沈没、エンジンも海底に没した。それが96年になって引き揚げられたのだ。

偶然なのか、この近くの松の木も、かつて建造時に福竜丸の資材として使われた。エンジンはその後、東京の展示館の近くに置かれ、今に至っている。

(川井龍介)

うさぎとマツコの人生相談
週刊エコノミストOnline
Newsがわかる
政治・社会
くらし・健康
国際
スポーツ・芸能
対談
コラム