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2019年3月17日号
大宅賞作家・森功 渾身ノンフィクション「憤死」 福島・双葉病院長から託された「遺言」/上
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福島第1原発から約5キロにある双葉病院。原発事故当時、救出の遅れから多くの患者が死亡、福島県のデタラメな報道発表によって不当な批判を浴びた。その病院長が今年1月末、息を引き取った。享年84。「憤死」というべき最期を遂げた病院長の「遺言」とは―。

◇死の間際、院長は筆者に「冤罪」と言い残した...

私がその病状を知ったのは、昨年11月のことだった。東日本大震災のあった2011年以来、年に何度か双葉病院のあった福島県大熊町やいわき市を訪ね、双葉病院の様子を取材してきた。院長の鈴木市郎とは福島だけでなく、折に触れ東京でも会ってきたが、まさか死の淵(ふち)に立たされているとは思いもしなかった。

昭和ヒトケタの1934年9月9日生まれの院長は、80代半ばにしてすこぶる壮健だった。東京電力福島第1原発事故に遭遇した8年前の3月11日は喜寿を迎える齢(とし)だ。そこで驚くべき力を発揮し、患者の命をつないできた医者である。
食通で、わけても牛肉にはうるさかった。東京・赤坂にあるしゃぶしゃぶ店が好みで、分厚くスライスされた肉を何枚もぺろりと平らげていた。
そんな鈴木が夏の初め、突然の病に見舞われたという。あまりに連絡がないので不審に思い、長女の松本千穂(52)に連絡すると、すでに入院していると知らされた。
「最初に体の異常に気付いたのは、いわきで病院のスタッフと親子丼を食べたときだそうです。どうも喉に引っ掛かりを感じて、おかしいと思っていたら、飲み込むことができず、吐き出してしまったらしい。そこから海外に行ったのですが、予定を変更して急きょ帰国し、空港からがんセンターに向かって検査を受けました。初めは原因がわからなかったけど、胸膜の腫瘍が判明したのです。その腫瘍が食道を圧迫し、食事が喉を通らなかった」
長女の千穂は医師でもある。極めて冷静に対処した。鈴木は東京・築地の国立がん研究センターから神奈川県相模原市にある母校の北里大学病院に転院し、闘病生活を始めた。
胸膜はその名称どおり肺や心臓、気管、気管支などの臓器を被(おお)っている。胸膜にできる悪性腫瘍は肺から転移する場合もあるが、肺がんそのものではない。石綿(アスベスト)の飛翔(ひしょう)が原因で発症する悪性胸膜中皮腫などが、その一種だ。
だが、鈴木のように健康な高齢者が、いきなり胸膜腫瘍に見舞われるケースはかなり珍しい。病室を訪ねた私を出迎えてくれた長女の千穂は、こうも言った。
「あれだけ元気でしたので、私たちもみな驚き、戸惑いました。原発事故では、異常に高い放射線のなかにおりましたので、それも気になりました。でも、父はあの性格ですから、『誰にも知らせるな』と家族に口止めしてきました、病院の一部スタッフ以外は、ほとんど誰も病気のことを知らないと思います。放射線治療と抗がん剤治療が効いて胸膜にできた腫瘍はかなり焼き切っていますので、快方に向かっています。春にはもとに戻って、何ごともなかったかのように復活する。父はそのつもりです」
見舞いに行った私自身、昨年末までは復活を信じて疑わなかった。
「震災前は病院の体育館やグラウンドで、看護師や介護士相手にバレーボールやバドミントン、テニスの試合をやったものです。私は負けたことがありません」
80歳を過ぎてなお体力に自信のあった鈴木はそう自慢してきた。福島県立双葉高校時代に高校球児として鳴らした鈴木は、スポーツが好きだった。そして私と会うたび、こう訴え続けてきた。
「私はまだまだ闘わなければなりませんからね。原発事故で亡くなった患者さんたちの無念を晴らし、あのとき何が起きたのか、それを解明する責任がありますから。なぜ患者さんたちが亡くなってしまったのか、それを」

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