サンデー毎日

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2018年10月14日号
佐川清・元佐川急便会長の秘話 角栄生誕100年 もう一人の「刎頸の友」元側近が見た...「史上最強」政界のタニマチ
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佐生誕100年を迎えた田中角栄。疑獄事件でともに"道行き"した政商とは別のもう一人の"刎頸(ふんけい)の友"がいた。佐川清である。政界にカネをばらまき日本一のタニマチと揶揄(やゆ)された。多くを語らず死して10年余―。かつての側近が、二人をめぐる知られざる秘話を明かした。

「大半の政治家はできそこないの男芸者だった。カネには転ぶが、芸がない」
佐川急便創業者、佐川清(きよし)。1992年に発覚した平成最大の疑獄事件、東京佐川急便事件(*1)で経営の第一線から引きずり降ろされ、失意のうちに2002年にこの世を去った。晩年、しばしば口にしていたのが、政治家は男芸者―という言葉だった。「気(き)っ風(ぷ)がいい」とおだてられカネをばらまいた揚げ句、最後は裏切られてきた佐川らしい言葉だ。そして、決まってこう続けたものだ。
「カネは社会の潤滑油だ。角さんのような大胆な発想でヒト、モノ、カネを動かすリーダーが出てこない限り、日本経済は衰退するしかないな」
田中角栄(1918~93)は、佐川が軽蔑した「大半の政治家」ではなかった。今年生誕100年に当たる田中は、新潟県刈羽郡二田村(かりわぐんふただむら)(現在の柏崎市)の出身。佐川は1922(大正11)年、同じ新潟県中頸城郡(なかくびきぐん)板倉村(現在の上越市)に生まれた。田中より4年後輩だ。同郷で同世代のよしみもあったのだろう。二人は親しかった。93年に田中が亡くなってからは、佐川急便から放逐された自身の境涯と重ね合わせるかのように、どこか悲しみがこもっていた。
晩年、田中も"家の子"の議員から裏切られた。佐川清もまた、親族らと経営権をめぐって熾烈(しれつ)な闘いを繰り広げた揚げ句、追放された。ともに激しい生きざまで、あたかも「リア王」のような生涯だったと思う。
私は80年1月から10年余り、佐川急便グループ統括本部(清和商事)に勤め、グループ社内報『飛脚』の編集を担当、82年から編集長を務めた。オーナーである佐川清の経営理念を5000人(当時)の社員に伝えるのが最大のミッションであり、昼夜を問わず京都市左京区の私邸にも呼び出された。感情むき出しの「会長」(私は、佐川が亡くなるまで「会長」と呼んでいた)の言動を食らいつくようにメモしてきた。退社後も他界するまで佐川の薫陶を受けた。時にバブルのあだ花のような呼ばれ方をするが、私の知る佐川とは、そんなちっぽけな人間ではなかった。

◇結びつけた飯場の「浪花節」

間もなく平成という時代が終わる。佐川清の名も歴史の波間にのみ込まれようとしている。閉塞(へいそく)感漂う中、かつて"どでかい男"がいたことを知るのも何かしらの意味はあるだろう。
身長160センチ弱、体重50キロほどの小柄な体形。だが、負けん気の塊だった。片耳は不自由。自称「ケンカ太郎」で、やんちゃのしすぎが原因だったらしい。それがゆえに徴兵検査は「乙種」合格とあいなったが、優等の「甲種」であれば激戦地に送り込まれ戦死していただろう。
終戦で帰郷した佐川だったが、ほどなく鳶職(とびしょく)会社「佐川組」を立ちあげて、全国の飯場を渡り歩く。しかし、元請けの倒産のあおりで佐川組は解散に追い込まれた。日雇い労働の仕事で日銭を稼ぎながら、妻と二人で京都―大阪を結ぶ「飛脚」稼業を始めたのが1957(昭和32)年3月、35歳の時だった。
荷を担ぎ、自転車、鉄道を乗り継いで目的地に運ぶ文字通りの「飛脚」だった。「荷主の要請がある時が営業時間」をモットーに信用を築き、急成長を成し遂げた。とりたてて学問があるわけではない。身一つでの出発であり、まごうかたなき田中角栄、小佐野賢治(*2)らの系譜に連なる。
裸一貫―。思えば、田中との出会いは、風呂場での縁だったと聞かされた。佐川組時代の話だ。
「角さんと初めて会ったのは、福島の飯場の風呂場でのことだ。湯船の中で浪花節を唸(うな)っている男がいたので『おい。なかなか上手(うま)いじゃないか。もう一曲やってくれ』と頼むと『そうか、よっしゃ』と、2曲目を唸ってくれたのが角さんだったんだ」
佐川も芸事が好きだった。二人は意気投合し、佐川組は、田中の「田中土建工業」の下請けに入ることになった。ある時、集金が滞った。佐川組の威勢のいい数人が田中事務所に乗り込むと、目を閉じて腕を組んだ田中が唸った。
「無いものは無い!」
その凄(すご)みたるや半端ではなかったそうだ。その数カ月後、田中は衆議院議員選挙に初当選する。47年春のことだ。「ならば国会に乗り込んでやる!」と、いきり立つ配下に「よさないか。もういい」と佐川は諫(いさ)めた。この一件をきっかけに、田中と佐川の二人は関係を深めていく。
その友誼(ゆうぎ)は終生変わらなかった。ロッキード事件(76年)で失脚してからも、佐川は「角さんの面倒は最後まで俺が見る」と話し、毎年暮れには、忘年会を開いて労をねぎらったものだ。のちに豪快なカネの使いっぷりから「戦後政界最大のタニマチ」と呼ばれた佐川だが、その原点は田中との出会いだった。

◇「カネは浪費のために稼ぐ」

私が佐川のそばに仕えた当時、資金面で面倒を見てきた政治家は与野党問わず300人は下らなかったはずだ。1979年に移り住んだ総檜(ひのき)造り800坪の豪邸、京都・南禅寺の佐川邸は、朝から来客が絶えなかった。その半数が「佐川マネー」目当ての政治家であることは言うまでもない。
「男は破天荒でええ」
「カネは浪費のために稼ぐ」
それが佐川の金銭哲学だ。佐川は芸事が好きだった―と記した。「好きだ」とはどういうことか。銀座の高級クラブに行った時のことだ。ピアノを弾いていた男を気に入り、「あんた何してる。男ならレコード会社でも経営してみろ」と声をかけるや、コースターに銀行の口座番号を書かせた。2日後、男の口座には2億円が振り込まれ、本当にレコード会社がつくられた。私が佐川に入社した数年後の話だ。まさに"破天荒"なカネの使い方だった。
政治家との付き合いについて、佐川清は「大口の荷主を紹介してもらうためだ」と割り切っていた。もう一つ、運輸行政の規制を有利に運ばせる計算があった。特に営業トラックの増車申請をしても認可が遅く、倍増する荷物の輸送をトラック不足が阻んでいた。死活問題であり、「認可」の壁の突破力が政治力だった。
佐川急便は商業荷物を扱うことで60年代以降、急成長をとげていた。それと棲(す)み分けるように、「宅急便」をひっさげ小口荷物の扱いで急成長していたのが小倉昌男(*3)が率いるヤマト運輸である。だが、その経営手法は対照的で、小倉は政治家と付き合わなかった。しばしば「佐川さんの増車認可は、うちのヤマトよりもはるかに早い」と政治力を頼みとする佐川の手法を批判したものだ。
しかし、新参者サガワにそんな余裕はなかった。増車問題をはじめ、地方の大口荷主を獲得するには地元の大物政治家の紹介が一番効果的だったからだ。佐川と小倉。ともに流通の"革命児"だが、対照的な二人だった。脇道にそれるが、ヤマト運輸―現在のヤマトホールディングスをめぐっては、法人顧客に引っ越し代金を「過大請求」していた問題が最近発覚した。クリーンを旨とした泉下の小倉の心中、いかばかりか。

うさぎとマツコの人生相談
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