誰しも、いつ、どこで死ぬかは分からない。コロナ禍は、そんな当たり前のことを改めて突き付けてくる。それでも現実は命の期限を告げられて、平常心でいられる人は少ないだろう。だが、余命を宣告されてなお緩和ケアにあたる医師がいる。関本剛さんだ。
――医師として診療や治療にあたりながら、著書を出し、殺到する講演や取材に対応する日々ですね。
関本剛 講演は新型コロナウイルスの影響でリモートになったりもしました。講演会と違って拡散されるので、一度話したエピソードを紹介すると、「聞いた話や」などとツッコまれるのでネタ作りに苦労しています(笑)。
――それ以外に、SNSで発信なさっている。
関本 大いに参考にしているのが、2017年、乳がんのため34歳で亡くなった小林麻央さんが闘病中に開設していたブログです。がん患者に勇気を与えたブログは今も世界中の人がアクセスできます。現在も小林さんのブログから勇気をもらっている人が多いのでは。私もその一人です。
――そもそも関本さんのがんは、どのように判明したのでしょう?
関本 体調異変を感じたのは19年の夏でした。咳(せ)き込むことが増えたのです。ただ、子供の頃から喘息(ぜんそく)だったので、さほど気にしてはいなかった。
しかし妻の進言で10月3日、六甲病院でCT検査を受けたのです。馴染(なじ)みの放射線技師と写真を見た途端、頭が真っ白になりました。仕事柄、肺がんだとすぐに分かりましたから。腫瘍は胸膜に達し、肺門リンパ節が腫れていた。気を取り直して母に「僕、肺がんやったわ、手術できないかもしれない」と電話したら、「ええ、どうして」と涙声になって......。
――母親の雅子さんも緩和ケア医でいらっしゃいますよね。
関本 はい。僕も母も多くのがん患者さんを見てきましたが、いざ自分事となると動揺しました。その数日後、妻の運転で神戸市立医療センター中央市民病院(以下、中央市民病院)へ行き、精密検査の結果に衝撃を受けました。頭部MRIの結果、大脳、小脳、脳幹へ多発転移していたのです。肺がんの脳転移は2、3カ月で死んでもおかしくない。抗がん剤治療での「生存期間中央値」は2年でした。簡単に言えば、余命2年です。付き添ってくれていた妻に「ステージ4や、もう手術どころではない。ごめん」と言うと「あなたは何も悪いことしてないのに......」と泣き崩れ、2人で号泣しました。
でも、悲しんでいたのは2、3週間ほどでしょうか。すぐに考えたのは自分が死んだ後の経済的なこと。子供たちが大学を卒業するまでの資産です。契約していた生命保険などを確認し、医療費などは稼ぎ出し、今の資産に手を付けなければ何とかなるかもしれないと分かり、少し落ち着きました。緩和ケア医として、改めて頑張って働こうと切り替えた。もともと生業(なりわい)にしたかった職業ですから。