8月になると、戦争に関する記事や特集を多く目にする。それはとても大切なことだが、同時に考えなければならないのが、継承する「語り」の方向性である。原爆投下をはじめ、日本の被害を語り継ぐことや、いまだ果たされていない犠牲者の補償について考え、行動することは社会の再構築のためには欠かせないことだろう。しかし、かつて日本が行った「加害」の歴史に関しては、同じだけの熱量をもって継承されていると言えるだろうか。
戦争と広島――といえば、すぐに思い浮かぶのが原爆被害である。しかし、広島はかつて「軍都廣島」でもあった。瀬戸内海に浮かぶ大久野島(おおくのしま)は、そんな地図からも消された島だった。なぜならそこは、島全体が「毒ガス工場」とされていたからだ。
1927年、大久野島に極秘の毒ガス工場が建設され、29年には製造が始まる。戦争に毒ガスが用いられるのはこれが初めてではない。毒ガス兵器は第一次世界大戦中にも各地で使用され、130万人を超える被害者を生んだ。その深刻な被害から、25年にはジュネーブ議定書にて、その使用が禁止されることになる。
「日本もまた、戦争での使用は禁止すべきだ、と賛成しました。ところがその後日本軍は、中国では2000回以上、毒ガスを使っていることが分かっています」
そう語るのは、毒ガス島歴史研究所事務局長の山内正之さん。同研究所代表の山内静代さんと二人で島を案内してくれた。当時、大久野島で働いた人は把握されているだけで約6700人、大部分が近隣住民だったという。
「働いていた人々も毒ガス被害に遭いました。体調が悪くなると倉庫係などに配置換えされ、体調がある程度よくなると、また製造に戻される。いよいよまた体調が悪化すると、〝医務解雇〟として島から追放され、〈ここで見たことは口外しない、破れば軍法会議にかけられても構わない〉という念書を書かされ、死刑になる可能性があると脅しをかけられて、解雇されていったそうです」
日本軍の毒ガスは主に中国で使われ、死傷者は8万~9万人と推計されている。敗戦にともない、毒ガスは中国に大量に遺棄されていくが、何も知らない現地の人々が廃棄物に触れ、被害が拡大していくことになる。それでも中国人被害者に対する日本政府からの公的な救済措置はなく、公式の謝罪もないままだ。
こうした毒ガスの使用は、実は戦後の裁判でも裁かれていない。米国がストップをかけたのだ。「米国が持つ毒ガス戦の能力を維持したかったのでしょう。日本を裁いてしまえば、自分たちもそれを使いにくくなる」と、正之さんはその理由を語る。もし公正に裁かれていたら、その後のベトナム戦争での被害は違ったものになったかもしれない。
大久野島は戦後米軍に接収され、朝鮮戦争の際に弾薬庫などとしても用いられている。それらもまた、誰かの命を奪ったことだろう。「二度と繰り返さない」ためには、何が起きたかを知る必要がある。「被害」だけではなく、「加害」の歴史にも目を向けたい。
(佐藤慧)