サンデー毎日

コラム
青い空白い雲
2026年10月11日号
異常気象が続いたら...年金制度が破綻したら...コメの流通は?
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牧太郎の青い空白い雲/1038 

 明治生まれの母親は、「戦中戦後の食糧難」を何度も何度も話していた。

「世界大戦だろ、それに関東大震災......イロイロなことがあったけれど、オマンマが食べられないのが一番辛(つら)かった。お前が生まれた昭和19(1944)年ごろはコメがなくて〝黒いソバ〟ばかり食べてた」

 黒いソバ? 

 当時、コメや小麦が統制・配給制。ソバは〝痩せ地〟でも育つ。そこで1943年の閣議で、北海道などの休閑地を利用した「ソバの大増産」などが決まった。

「でも、その頃のソバ粉は殻や埃(ほこり)、砂まで交じって真っ黒。その黒いソバを団子みたいにして食べる」

「戦後は......徳川家の菩提(ぼだい)寺、寛永寺の不忍池まで〝田んぼ〟にしてコメを作ったんだよ」

 終戦直後、上野駅のガード下にたむろする戦災孤児。住むところもなく、誰からも守ってもらえない。かろうじて雨露だけは凌(しの)げるが、「食うもの」はない。毎日、餓死者が出る。

 このありさまを見た元特攻隊員の青年が「不忍池は手つかずの肥沃(ひよく)な湿地」と言って、田んぼにした。孤児たちが田植えや稲刈りをやって終戦翌年、不忍池から150俵のコメがとれた。翌年も翌々年も「不忍池米」の豊作が続いた。

 ともかく、コメがない。政府は食糧管理制度を敷き、農家から高めの価格(生産者米価)で買い上げ、消費者へは安めの価格(消費者米価)で売り渡した。生産者が安心してコメ作りを続けられる!というメッセージ。これがコメ増産への最大の工夫だった。

 大学を卒業して1967年、毎日新聞に入社。〝コメどころ〟新潟支局に配属されたら「自主流通米」騒動だった。農家が国にすべてのコメを売るのではなく、指定業者(JAなど)を通じて、卸売業者やスーパーへ直接流通させよう!というのだが、これには賛否両論。食糧管理特別会計の赤字が増えて、当時、政府はにっちもさっちもいかなかった。以来、コメの流通は何度かの政策変更を経て「ほぼ普通の食品」になった。

 しかし......。これでよいのか? と思うようになった。コメ価格は上がったり、下がったり。政府は「増産!」と言ったり、それをやめたり。農村は高齢化と後継者不足。物価高で肥料や資材費は値上がりする。再び下がり始めた米価を見て、多くの農家が「コメをやめようかな」と呟(つぶや)く。

 それに「超異常気象」である。

 コメは機械で大量生産できるものではない。もし、異常気象が続いたら......コメ作りはリスクが多すぎる。時代遅れ!と言われそうだが、コメの価格・流通に関して政府が「義務と責任」を取るべきだ。

 破綻寸前?の「年金」の代わりにコメを配給する!なんてことも......。「コメの周辺」は何が起こっても不思議ではない。

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 ◇まき・たろう

 1944年生まれ。毎日新聞に入社後、社会部、政治部を経て『サンデー毎日』編集長に。宇野宗佑首相の女性醜聞やオウム真理教問題を取り上げる。現在、毎日新聞客員編集委員。ブログに「二代目・日本魁新聞社」がある

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