サンデー毎日

コラム
青い空白い雲
2024年2月11日号
横綱・阿武松の「待った」も技のうち。「能登」を去ってよいのか?
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牧太郎の青い空白い雲/933 

 小さい頃、「人形町末広」(東京・日本橋人形町)で六代目・三遊亭円生の落語「阿武松(おうのまつ)」を何度か聴いた。

 能登の国鳳至郡鵜川村七海(ふげしごおりうがわむらしつみ)から相撲取りを目指し江戸へ出てきた長吉。よく稽古(けいこ)はするが大変な大飯食い。たまりかねた部屋の女将(おかみ)さんが「あんな大飯食いにいられたら食いつぶされてしまうから、早く暇を出したほうがいい」と言い出し、破門になる。

 大食いのせいで関取になれず、故郷へ帰るのは面目ない。身投げでも?と思ったが、どうせ死ぬなら大好きな「おまんま」を腹一杯食ってからにしよう。旅籠(はたご)に入り「何もいらないから〝おまんま〟だけ、好きなだけ食わせてくれ!」と頼む。お風呂を先に!と勧められるが「いや、明日川へ入る」と断り、黙々と飯を食い始める。「最後の晩飯」だ。事情を聴いた宿の主人が、月に五斗俵を二俵ずつ「食い扶持(ぶち)」をプレゼントすると約束。長吉は江戸に戻り相撲を続けた。

 この話のモデルになったのは第六代横綱・阿武松緑之助。五尺七寸(173㌢)三十六貫(135㌔)。当時としては「大型力士」で、文政11(1828)年、吉田司家から横綱免許を授与された。第五代横綱・小野川喜三郎が引退して以来約30年ぶりの横綱。色白で、力が籠もると満身が真っ赤になる。その姿は錦絵になった。

 この噺(はなし)を聴くたびに、お袋は「実在する長吉は、我々が住んでいる柳橋のコンニャク屋の下男だったんだよ」と話していたが、本当のところは分からない。

 ともかく「阿武松」の逸話は江戸下町の至る所にあったらしい。取り口は慎重そのもの。「待った」が多かった。

 文政13年の上覧相撲で、第七代横綱・稲妻雷五郎に再三「待った」をして、相手をじらして勝ってしまった話は有名。借金返済を催促されて待ってくれ!と頭を下げると、「阿武松でもあるまいし」と混ぜっ返すのが流行語に。「待った」「待った」も技のうちだ。

 横綱「阿武松」の故郷、能登半島は今、大変なことになっている。いまだに「断水」「停電」が続いている。被災地の皆さんは、その日、その日、何かにつけて「決断」を求められている。究極の決断は「故郷」を見限るか?とどまるか? ではないだろうか。「能登を離れる」選択をしなければならない人もいるだろう。慎重に慎重に、時間をかけて考えてもらいたい。

 横綱「阿武松」の話に戻ろう。彼は江戸に行きたかった。しかし、眼(め)の不自由な母をただ一人、家に残して旅立たなければならない。悩んだ。でもある日、「きっと立派な相撲取りになって、帰って参りますから、どうか江戸へ出してください」と母に頼んだ。母は快く許した。横綱が眼の不自由な母を江戸に迎えて孝養をつくしたのは当然だった。(『能都町史』第5巻)

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