牧太郎の青い空白い雲/926
税金を徴収する立場の財務副大臣が9回の税金滞納と4回の資産差し押さえ! びっくりした方も多いと思うが「税金滞納」なんて、どこにでも転がっている。
小学生だった昔、我が家も「差し押さえ」を受け、花瓶や掛け軸まで家中に「赤い札」が貼られたのを覚えている。
実家は家代々、東京柳橋で「料亭深川亭」を営んでいた。文政年間(1820年頃)、初代深川屋文吉(女性)は高級天ぷら「金ぷら」を考案して大繁盛。お祖父さんの牧文次郎(五代目文吉)は明治時代、洋書「丸善」の丁稚(でっち)を務め、独立して「出版社深川屋蔵版」をつくり明治20(1887)年、『新撰 皇国道中明鑑』(「日本初の時刻表」のようなもの)を出版した。料亭と出版を両立した文次郎は「後は野となれ山となれ」というユニークな遺言を残し、料亭の経営を次女、牧キミに託した。僕が生まれる前のことである。
後継者になったキミにとって一番の悩みは「遊興飲食税」だった。
遊興税は、大正8(1919)年5月に石川県金沢市が初めて市税として創設したもの。条例には「料理店、貸席、貸座敷にて芸娼妓(げいしょうぎ)を招聘(しょうへい)して飲食又は遊興をなし金員を消費せしものに課税する」とあり、芸者さんを呼べば税金を取られるシステムである。
この「金沢方式」に大蔵省(現・財務省)主税局国税課長が、「遊興税は日本で初めての事であるが、私もその趣旨は無論よいと思って居る」(『東京朝日新聞』)と言い出し、金沢市の遊興税導入から1年後には5県38市まで広がったという。国は昭和14(1939)年の支那事変特別税法の改正で、この地方税「遊興税」を国税「遊興飲食税」に変えたことでキミの悩みになった。
税率が異常に高いのだ。芸妓への支払代金(花代)で見ると、導入当初は20%だったが、次々に値上げされ、僕が生まれた昭和19(1944)年には300%にまで跳ね上がったのだ。
戦争が大蔵省を「狂気」にした。実家は休業した。
戦後、遊興飲食税は廃止されたが、遊興税、遊興飲食税、料理飲食等消費税、特別地方消費税などと名称を変えて存続。我が家はお客さんが破綻したりして、何度か「差し押さえ」を経験した。
多くの同業者が、この酷税に苦しめられ自殺した方もいる。この税金は地方消費税の創設などの理由で、平成12(2000)年3月にやっと廃止されたが、その間、税金に苦しんだキミは文次郎の遺言通り「後は野となれ山となれ」の気分で料亭を廃業した。
一時、日本一といわれた「東京柳橋」の花柳界はこうして全滅したが......。あの財務副大臣は「税金の怖さ」を多分、知らないだろう(笑)。