牧太郎の青い空白い雲/887
ちょうど昨年の今ごろ、竹岡準之助先輩からこんなハガキを貰(もら)った。
「前略 一昨年の夏、退院したその足で入居した老人ホームで二年余、療養に努めてまいりましたが、心境の変化があって、このほど退所、下記の小宅に転居しました」
竹岡先輩は僕より10歳年上の競馬仲間。早稲田大第一文学部フランス文学科を卒業。学生時代に三浦哲郎、佐藤光房らと同人誌『非情』を創刊。その後、季刊誌『パピヨン』を編集発行していた大先輩である。
なぜ、老人ホームを出たのか?「自室を覆いがたい閉塞(へいそく)感がそうさせた」とハガキには書いてあるが、何が起こったのか? 気になっていた。
ところが一年経(た)って、先輩から『不機嫌な患者 快気祝いに代えて』という本が送られてきた。
竹岡先輩には『白夜の忌』『愚者の科学』などの〝名作〟があるが、今回は日々の記録。そこには「老人ホーム」を退所した理由が書いてあった。
ある日、老人ホームの彼の元に(以前、競馬のウインズで知り合った)1歳年下の元八百屋がひょっこり尋ねてきた。
管理人に呼び出され、玄関先に行くと「馬友」はニコニコと椅子に座っていた。
竹岡さんは、自室に戻り、備え付けのボックス型の冷蔵庫に常備してある缶ビールを持ち出し、二人で一杯始めた。コロナ騒動で自室に友達を入れることができない。
そこへ、老人ホームの経営者がやって来た。この本には「経営者が突如踏み込んできて、我々に飲酒を咎(とが)め立てた」と書いているが、せっかく先輩が開いた宴(うたげ)の席は店仕舞(みせじま)いすることになった。
もう一つ「事件」が起こった。預貯金のことで、銀行員が「外に出られない預金者」のため、わざわざやって来た時である。
経営者は「ここに書いてあるだろう!」と戸口に張り出された「入館禁止」の四文字を指さした。
銀行員はびっくりした。「恫喝(どうかつ)に近かった」と書いている。
コロナ騒動で、老人ホームの利用者は家族にも会えない。孤独だ。
それにしても、善意の銀行員に対する「厳しすぎる扱い」で先輩に不信感が生まれた。
「3食昼寝付きで何もしない〈老人下宿暮らし〉もまた愉(たの)しからずや」と思っていたが、この時、退所を決めたらしい。
誰が悪いわけではない。
悪いのは「新型コロナウイルス感染症」である。
でも、自由に、自分勝手に生きてきた88歳の先輩の「やるせない思い」はよく分かる。コロナ騒動がなくても「老人ホームの生活」はかなりの部分で制約されるのだろう。
老人ホームの経営者に「自由」を求めるのは、八百屋で魚をくれ!と言うのと同じなんだ。