牧太郎の青い空白い雲/852
知人のご子息が大学受験の真っ最中。
「どこを受けるんだ? 東大だろう?」と尋ねると「冗談じゃないですよ。それほど、頭が良い訳じゃないし......」。
しかし、である。なぜ、東京大学は「頭の良い」学生だけ入学させるのか? 不思議である。
彼は必要な単位を取って高校を卒業する見込み。彼のオヤジはキチッと税金を払っている。東京大学に進学して何が悪いのか?
なぜ大学は「頭の良い(試験技術が上手な)学生」を選ぶのか?成績の悪い生徒を入学させ、上手に指導すべきではないのか?
少なくとも、国費を(私学より)十分に使っている国公立の大学が入学生を選ぶのは間違っている!と僕が言い放つと、東大受験を諦めたらしい彼は「そうしたら、受験生が殺到しますよ」
「いいじゃないか。殺到したら、くじ引きで、合格者を決めれば。それが民主主義だと思わないか?」と言うと「......」。
「めちゃくちゃへんな人!」と思われたらしい。
しかし「くじ引き」は民主主義の始まりだ。
古代アテネでは、一定の資産を持つ成人男性全員が投票権を持つ民会を持っていたが、同時に、法案を提出する評議会、裁判所、さらに行政執政官のメンバーは市民の抽選で選ばれていた。
民主主義といえば「代議制民主主義」を指すようになったのはフランス革命以降のこと。それまでは「くじ引き民主主義」だった。
「くじ引き」は〝偶然〟である。因果関係も「つながり」もなく、予期しないことが起こる。「くじ引き」は運、不運。その結果は神格化?される。
大学入試を「くじ引き」にすれば、その結果は知力、学力と無縁。言わば「運命」である。
東大を受験して落ちるより「抽選」で落ちるほうがいい。「運が悪かったんだから仕方ない」と諦めることができる。
最近「世の中が誤っている。俺は被害者だ!」と思い込む人たちの拡大自殺的凶悪犯罪が続けざまに起こっている。
大阪・北新地のクリニックに放火して、25人を死亡させた「放火男」、埼玉・ふじみ野で、母親の介護をめぐるトラブルで、医師を人質に立てこもり、殺害した男......いずれも「俺は被害者だ。アイツを道連れに死んでやろう」と思う。
確かに「運が悪かった」のかもしれない。でも、世の中「くじ引き」だ!と思えばいい。
「くじ引き」に外れたのは俺だけではない!と思ったらいい。
人生は元々、知力だけでも、努力だけでも、金力だけでもない。全て「くじ引き」(偶然)の結果!と思えば少しは気が楽になる。