牧太郎の青い空白い雲/818
遠〜い昔の話だ。昭和38(1963)年の正月、高校3年生の僕は「新聞記者より教授になった方がいいじゃないか?」と勧められたことがある。
母校××大学付属第一高校の教師は「新設の×大学×学部の甲種特待生試験を受けたらよい。合格すれば授業料免除。小遣いまで貰(もら)える。卒業後、学部に残って、行く行く教授になる約束だ。新設の学部だから、人材確保が必要なんだろう。良い話じゃないか?」と言うのだ。
美味(おい)しい話かもしれない。でも、当時人気のNHKドラマ「事件記者」に夢中になっていた僕は「教授なんかになりたくありません!」と言い放ち、早稲田大学新聞学科に進んだ。
国文学史に詳しい教師は「夏目漱石でも東京帝国大学講師の肩書を捨てて、新聞屋を選んだから仕方ないか」と苦笑いしていた。
そういえば、夏目漱石は「(朝日新聞社)入社の辞」の中で「新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である」と皮肉っぽく書いている。なぜ、東京帝国大学を辞めたのか?には諸説あるが、漱石は当時、三流の民間企業だった新聞屋に「潑溂(はつらつ)とした気風」を感じ取っていたのだろう。新聞屋に「権威」なんて要らなかった。
漱石の時代はもちろん、僕が毎日新聞社でメシを喰(く)った時代も、新聞は(下卑ているかどうか?はともかくとして)権力とか、権威とかいう価値観と〝適当な距離〟を持ち続けていた。
やっぱり新聞記者を選んでよかった!と今でも思っている。
ところが、この数カ月、新聞に元気がない。例の東京五輪の開催問題である。深刻なコロナ禍。世論調査では日本人の約75%が「中止・延期」を望んでいるのに、新聞各社の態度は曖昧で、開会式まで2カ月足らずになっても一部を除き「明確な意見」を明らかにしていない。
何故(なぜ)か? 読売、朝日、毎日など有力紙は東京五輪のオフィシャルスポンサーなってしまったからではあるまいか? 有力紙は資金提供の見返りに、五輪マーク使用などの特権を獲得しているから「中止!」なんて言えない?
いくら綺麗事(きれいごと)を言っても、最近のオリンピックはカネ、カネ、カネ......「開会式の入場券(最高で)30万円」に象徴される拝金主義。その結果、2032年まで放映権契約している全米ネットワークのNBCが「中止しない!」と言えば、日本の新聞は黙ってしまう。
新聞は「オフィシャルスポンサー」という権威を手にしたばかりに「何も言えない存在」になってしまった?
漱石が聞いたら、何と言うだろう?