サンデー毎日

コラム
青い空白い雲
2020年3月15日号
初代鈴久も「二代目」も中江滋樹も...「相場師の人生」は儚い
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牧太郎の青い空白い雲/758

「相場師」に興味がある。

と、言うのは......我が祖先は江戸中期、三河から江戸に移り住み、代々、東京・柳橋で「料亭・深川亭」を経営していた。

戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍に敗れた元幕臣・榎本武揚が組織した「江戸っ子会」の溜(た)まり場。「深川亭」は〝反権力〟の客に可愛がられた。

明治30年代、希代の相場師・鈴久(鈴木久五郎(きゅうごろう))もその一人だった。「深川亭」を貸し切りにして「芸者供養」。数十人の芸者を上座に据え、真新しい長襦袢(ながじゅばん)、着物、帯、足袋を並べ、太鼓持ちが着せる。足袋のコハゼは18金!

時には座敷に池を張り、その中にカネをばら撒(ま)き「お酌(舞妓)」に拾わせる。1906(明治39)年の日露戦争特需のころ、彼の資産は(諸説あるが)現在の貨幣価値で1000億円以上あったらしい。

戦後も「深川亭」には〝兜町の風雲児〟がお客になった。例えば藤綱久二郎さん。52年、三菱地所の前身、陽和不動産の株式を買い占め、大儲(もう)けする。「証券取引所の給仕上がり」の藤綱さんは「二代目鈴久」と言われた。

当時、小学生だった僕は、芸者の背中に1000円札をペタペタ貼って喜ぶ初老の藤綱さんに驚いた。何しろ、5000円札も1万円札もなかった時代のことだ。

新聞記者になっても「相場師の生活ぶり」には興味があった。中江滋樹さんも気になる一人。78年、投資顧問会社「投資ジャーナル」を設立。7000人以上の一般投資家から約780億円を集めて、仕手戦で毎日、平均2億5000万円くらい儲けていたらしい。

「お大尽(だいじん)遊び」のホームグラウンドは赤坂の「川崎」。「田中角栄(専用)部屋」が有名な、この料亭から銀座の高級クラブに〝出撃〟。ハシゴする。いつも2000万〜3000万円入りの紙袋を持っていた(「中江滋樹のゼニの哲学」などに詳しい)。どの時代でも、相場師は「夜のお遊び」のために稼いだ。

「投資ジャーナル」の金集めが詐欺!とされ、中江さんは85年に逮捕され、懲役6年。出所後も「三井埠頭(ふとう)手形乱発事件」(98年)に関連したぐらいで、目立った消息は無かった。

2月20日朝のことだ。東京都葛飾区南水元のアパートから出火、火元の焼け跡から「66歳の中江滋樹さん」の遺体が見つかった。一人暮らしだった。

母から聞いた「鈴久」のことを思い出した。明治41年のバブル崩壊で株価が88%暴落。買い方に回った鈴久は全財産を失い、巣鴨の家賃4円50銭の借家に寂しく移り住んだ。「二代目鈴久」の藤綱さんは「ソ連首相スターリン重体」による株価大暴落に遭い、彼の豪遊を「立て替え払い」していた母は大きな痛手を負った。

なぜか、天才相場師の一生は儚(はかな)い。

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