なかにし礼の軌跡「昭和の色気」を伝える作家
伊藤彰彦・映画評論家
情愛の究極をめざす歌の書き手にして、強権に一歩もひかない硬骨の民主主義者。なかにし礼さんの特異な個性に、私たちは長く魅せられてきた。深いおつき合いをいただいた本誌は、なかにしさんと友誼を結んだ方々とともに、唯一無二の「美的反抗者」を記憶するための特集をお届けする――。
1938年、満州・牡丹江市で生まれたなかにし礼さんは、クラシック音楽と日本の古典芸能が流れる裕福な家庭で育った。その至福が打ち砕かれたのは6歳の時。日本の敗戦とともに満州に進撃したソ連軍からなかにしさんは命からがら逃げのびる。この時、日本政府が旧満州国の居留民を見殺しにしたことは、なかにしさんの「国家は何ひとつ責任をとらない」という認識につながった。
46年、日本に引き揚げてきたなかにしさんは、満州では耳にする機会がなかった当時の流行歌を初めて聴き、歌謡曲が軍歌と同じ〝七五調〟であることに嫌悪を催す。七五調への日本人のメンタリティを日本人への呪縛ととらえ、それから脱却した日本語を書こうとしたところになかにしさんの作詩家としての出発点がある。そしてシャンソンの訳詩に手を染めたなかにしさんは、石原裕次郎の「はやり歌を書きなよ」というひと言で歌謡曲の作詩家に転身。60年代後半から始まる昭和歌謡の黄金時代に、「天使の誘惑」(黛ジュン)、「今日でお別れ」(菅原洋一)、「北酒場」(細川たかし)で三度にわたって日本レコード大賞を獲得、一躍花形作詩家となる。と同時に、遊び人としての艶名をとどろかせ、頽廃(たいはい)と耽美(たんび)の匂いを漂わせる〝時代の寵児(ちょうじ)〟となった。
こうした「昭和のなかにし礼」のイメージは、平成に入ると一変する。なかにしさんは平成元年に作詩から離れ、作家・村松友視の後押しで『兄弟』(97年)を書き、小説家としてデビュー。第2作『長崎ぶらぶら節』(99年)で直木賞を受賞するや、小説家として名を馳(は)せた。同時に舞台制作に身を投じ、芸能の始源を追い求める。
2012年に食道がんが見つかり、自らが選択した陽子線治療により寛解するも、がんが再発する中、病に屈しないばかりか、戦争への警戒心を失(な)くしてゆく社会や平和憲法を踏み躙(にじ)る政権と〝闘う作家〟になかにしさんは変貌していった。しかし、「平和とは何か」を論ずる中で、「平和はエロティックであり猥褻(わいせつ)なものだ」とかたくなに主張し、死を覚悟しながら書いた最後の小説『夜の歌』では、戦争とともにかつて褥(しとね)をともにした女性たちを思い起こし、彼女らの声音や匂いにいたる記憶を克明に描くところが、〝戦争とエロスの作家〟なかにし礼さんの真骨頂だった。