対談詳細

艶もたけなわ
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竹内正浩 文筆家・歴史探訪家

2019年2月17日号

阿木燿子の艶もたけなわ/239 

 30年続いた「平成」も残り3カ月を切り、メディアでは平成を振り返る企画が増えています。そんななか、天皇陛下の「旅」に焦点を当てた本が昨年10月、出版されました。著者の竹内正浩さんは元旅行雑誌の編集者。地球15周半におよぶ旅の記録を丹念に調べてみて、くっきりと浮かび上がったのは天皇、皇后両陛下のある"思い"でした。

 ◇天皇、皇后両陛下ほど、公私にわたって共に行動しているご夫婦はいません。  

 ◇この本は、お召し列車などをイラストで図解しているので、「へぇー」って感

  じでした。  

 ◇とても嬉しいです。そういう情報が載ったものが、実はあるようで無いんです。

阿木 竹内さんが昨年出された、両陛下の行幸啓(ぎょうこうけい(注1))について書かれたご著書『旅する天皇 平成30年間の旅の記録と秘話』を拝読しました。それにしても両陛下が移動なさった距離が、トータルで約62万キロメートル、地球15周半になるとは驚きですね。それに、それぞれの旅にまつわるエピソードも、とても感動的で。

竹内 ありがとうございます。読んで頂いただけでも、光栄です。

阿木 そもそも竹内さんは、旅行会社にお勤めだったんですよね。

竹内 JTBに勤めておりました。添乗員をやったこともあるんですよ。

阿木 じゃ、高校生を引き連れて、京都に行くとか?

竹内 修学旅行の添乗員をやっていた頃はまだ若かったので、チーフから「取りあえず、走ってこい」と言われて。「そこで手持ち無沙汰にしていると怠けているように見えるから、用事がなくてもそこら中を走り廻(まわ)れ」と。添乗員にも、いろいろなテクニックがありまして(笑)。

阿木 じゃ、海外にも?

竹内 出版部門に廻されたことでも分かるように、語学はまるで駄目でして、国内一本槍(やり)でしたね。

阿木 もともと旅がお好きだったんですか?

竹内 そうですね。それでJTBに入社したんです。

阿木 竹内さん個人の資料を拝見していたら、軍事施設を訪ねるのがお好きだとか。私、横須賀に縁があって、父と母が住んでいた頃はよく行っていたんです。横須賀は軍事施設が多く残っていて、今でも砲台跡とかが有りますよね。

竹内 本当にあそこは軍事施設の宝庫ですね。軍というのは機能重視というか、砲台にしても目的がはっきりしているわけです。ただ砲弾を撃つとか、防空壕(ごう)だったら避難するだけとか。必ず目的が一つに集約されているので、じっと見ていると今にも動き出しそうな感じがあって、そこに惹(ひ)かれるんです。横須賀港は、今でも現役の軍港ですしね。

阿木 観光名所になりそうな遺跡とかは保護され、大事にされますが、かつて軍が使っていたというだけで、その跡地や施設などは大事にすること自体、いかがなものか、という雰囲気が有りますよね。

竹内 そうなんです。最近は明治以降の工業跡地なんかも世界遺産に登録されますが、軍関係のものは、朽ち果てるに任されていたりするんです。僕としては、それがとても残念で。

阿木 かつての軍事施設に現在はポツンと碑が立っていたりしますよね。普通の人にすると「何だ」と思われる所が、竹内さんにはとても魅力的に映るというのが面白いですね。ご著書を拝読しながら思ったのですが、両陛下の旅の大きな柱のひとつは、太平洋戦争で亡くなられた方の御霊(みたま)を慰めるものだったのだなと。

竹内 そうですね。昭和天皇は太平洋戦争のある意味、当事者でいらっしゃったので、ご自身が慰霊に行きたいと思っても、いろいろ問題があって叶(かな)わなかった。現在の陛下は、直接関与はしていなくても、少年時代に疎開などもなさって戦争体験がお有りになる。それは皇后陛下も同じですよね。なので、昭和天皇の跡を継がれた天皇陛下が、皇后陛下を伴われて慰霊の旅をなさったのは、ある意味、自然な流れだったのではないでしょうか。

阿木 天皇陛下は皇太子時代に沖縄に行かれ、「ひめゆりの塔」をお訪ねになっていらっしゃいますよね。両陛下はいつごろから、慰霊の旅を思いつかれたのでしょう?

竹内 今、阿木さんがおっしゃった沖縄訪問は、昭和50(1975)年に国際海洋博に出向かわれた折のことだと思うのですが、その時、「ひめゆりの塔」の前で、過激派の男二人に火炎瓶を投げつけられるという事件が有りましたよね。それでも怯(ひる)むことなく、その後も沖縄には度々行かれているので、沖縄に対する"思い"は、かなり以前からお持ちだったのではないかと思うんです。

阿木 両陛下は戦争だけでなく、さまざまな自然災害の被災地へも、かなり早い時期から、足を運ばれていらっしゃいますよね。

竹内 ご結婚なさった昭和34(1959)年の伊勢湾台風の時に昭和天皇の御名代として名古屋の方に向かわれているんです。この時は皇太子妃美智子さまはご懐妊中のため皇太子殿下がお一人でした。そこから数えると被災地訪問も60年以上になるわけで、筋金入りと言えるでしょう。その後は雲仙・普賢岳、阪神淡路大震災、それから東日本大震災と、私達の記憶に残る大災害の被災地を悉(ことごと)く、お訪ねになっていらっしゃいます。

阿木 慰霊、慰問の旅のきっかけとなった沖縄訪問と伊勢湾台風被災地訪問は、昭和天皇の御名代ということですが、その後も続けていらっしゃったのは、昭和天皇のご意向だったのか、天皇陛下ご自身の発案だったのか?

竹内 『昭和天皇実録(注2)』みたいなものを読んでもそういったことは一切出てこないので、推測ですが多分、陛下のご意思だったと思います。

阿木 竹内さんのご著書は『旅する天皇』というタイトルですが、天皇陛下の側(そば)には、いつも皇后さまが寄り添っていらっしゃる。

竹内 そうですね。一般人でも、これほど公私にわたって共に行動しているご夫婦はいないわけで。

阿木 本当ですよね。日本一、仲の良いご夫婦ですね。

竹内 いえ、世界一じゃないでしょうか(笑)。

阿木 皇后さまは天皇陛下の前に出ることはなさらず、いつもさり気なく陛下を支えていらっしゃる。

竹内 とくに最近は一見、腕を組んでいるように見えても、杖(つえ)の代わりになっていらっしゃる感じですよね。

阿木 本当に人を思い遣(や)る心の深いお二人ですが、それが旅の仕方にも表れていますね。私、びっくりしたんですが、行幸啓に向かわれる時は、かなり念入りな下準備をなさるんですね。平成6(1994)年に訪米なさいましたが、その前にはまず硫黄島にいらっしゃった。それも両陛下の強いご希望とのことで。アメリカ軍と戦い、多くの戦死者を出した硫黄島への鎮魂をまず優先し、彼(か)の地で白菊を捧(ささ)げられた。当時私は、両陛下の訪米と硫黄島へのお出かけのニュースを見ても、そこに関連性があるとは思ってもみませんでした。両陛下は日米で戦った不幸な歴史を鑑みて、平和の祈りをまず捧げられた。それを知った時は、ただただ頭が下がる思いがいたしました。

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