対談詳細

艶もたけなわ
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有馬稲子 女優

2018年12月23日号

阿木燿子の艶もたけなわ/232 

 宝塚の娘役トップスターで、退団後は映画やテレビドラマで活躍。その後、活動の場を舞台に移してきた有馬稲子さんは、数多くの賞を受賞し、記憶にも記録にも残る大女優です。かねて有馬さんに憧れていた阿木さんのリクエストで実現した今回の対談は、名演技の裏側に並々ならぬ有馬さんの努力が隠されていたことを知ることができました。

◇私、凄く勘が悪かったので、人の30倍は努力しなければ駄目だと思ってました。

◇「浪花の恋の物語」の有馬さんは、あのスクリーンの中で永遠です。  

◇まあ、観てくださったの、嬉しいわ! あれだけ素晴らしい映画はなかなか無いでしょう?

有馬 私、今日、ちょっと心配していたんですよ。あなた、怒っていらっしゃるんじゃないかって。

阿木 あの、何を?

有馬 だって、私、ご主人の宇崎竜童さんにラブレターを書いたことがあるんです。

阿木 文藝春秋に寄せてくださった「宇崎竜童さま、ひと筆怨み参らせ候」というタイトルの一文(注1)ですね。昨夜、拝読しました。その中で、私の影響で主人が野菜派になったことを嘆いていらっしゃった。申し訳ありません、主人、有馬さんがイメージしてくださったカッコいい不良じゃなくて。おまけにお酒も飲めない、甘党で。

有馬 ああは書きましたが、あれ、私の熱烈なファンレターなんです。分かって頂けるかしら?

阿木 もちろんです。昨夜、主人に記事のコピーを手渡したら、サッと目を通して、照れ臭そうにしておりました。で、くれぐれもよろしく、とのことでした。

有馬 ちょっとひと捻(ひね)りしていますけど、私、あの文章、気に入っているんです。私が勝手に思い描いていた人とは違っていましたけどね(笑)。だって、考えてもみてください。奥様の尻に敷かれて、お菓子を食べている宇崎竜童さんなんて、イメージがまったく狂っちゃいますよね(笑)。

阿木 本当に失礼しました(笑)。デビュー当時の主人は、かなりワルのイメージで売っていましたものね。

有馬 宇崎さんの熱烈なファンになってから、何かの雑誌であなたをお見かけしたの。でも、その時はまだお二人がご夫婦だと知らなくて。とても奇麗な方だなって。

阿木 とんでもないです。有馬さんのような美しい方からそんなお言葉を頂いたら、返答に困ります。

有馬 私は、女の癖に奇麗な女の人が好きなんです。で、その素敵(すてき)な方が、宇崎さんの奥様だと知って、大ショック(笑)。

阿木 私は私で、有馬さんは憧れの方で、ぜひ、この対談にお出まし頂きたいと思っていたんです。なので、今日はとても光栄です。

有馬 でも、どういう理由で、私のこと、そんなふうに思ってくださったの?

阿木 凜(りん)とした生き方が素敵だなと。岸惠子さんがこの対談に出てくださった時に、「にんじんくらぶ(注2)」のお話をなさっていて。映画界がまだ勢いのある頃、五社協定に反旗を翻した女優さん達がいらっしゃった。それが岸さんと有馬さんと久我美子さん。あの当時、若い女優さんが体制に刃向かうなんて、大変なことですよね。それをなさったなんて、凄(すご)くカッコいいなと思ったんです。

有馬 五社協定は、大手の映画会社が俳優さんと専属契約を結んで、他社には出さないためにできたものなんです。私達、女優からしたら、理不尽この上なくて。だって、それじゃ、出たい作品に出られないわけですから。

阿木 ハリウッドでさえ「#Me Too」運動が起きたのはこの2~3年のことですよね。こちらはセクハラですが、もう何十年も前に、日本で有馬さん達は、しっかり自己主張をなさっていた。

有馬 その代わり、バッシングは凄かったですよ。もういろいろ言われて。日本は戦後になって、優秀な監督さん達が外地から帰ってきたんです。みなさん、いい映画を撮るんです。山本薩夫さんとか今井正さんとかね。そういう監督から声が掛かると、私達、出たいわけですよね。でも、五社協定のお陰で出られない。

阿木 それが「にんじんくらぶ」を作った一番の動機だったんですね。でも映画会社5社を相手に女優3人がどうやって闘ったんですか?

有馬 私達、怖いもの知らずの、世間知らず。ただ、川端康成先生をはじめ、井上靖先生など文壇の重鎮が応援(注3)してくださって。上野精養軒で発表式をやったんですけど、みなさん、来てくださって、もうお祭り騒ぎ。そこで私達、踊ったりしたんですよ。

阿木 30代の頃ですか?

有馬 昭和29年だから20代です。後先のことをあまり考えないで、行動を起こしてた。でも今でも精神は変わってないつもりです。果敢に挑戦してゆくという精神はね。

阿木 今日は私、そのパワーを頂きに参りました(笑)。

有馬 いえいえ、私の方こそ、あなたからパワーを頂きたいわ(笑)。思えば私、小さい時は割と孤独だったんです。4歳の時に叔母夫婦に貰(もら)われて韓国に行ったんですけど、友達もできなくて、一人で居ることが多くて。だから、今でも、何かあった時、立ち向かってゆく気持ちだけはあるつもりなんです。

阿木 韓国からの引き揚げでは、大変なご苦労をなさったんでしょうね。

有馬 まだ子供でしたけど、記憶に残ってますよね。私とママは幸運なことに韓国人が船長さんのイワシ船に乗せてもらえることになったんです。だけど16トンの小さな船で、そこに日本人が30人くらい体を寄せ合って乗り込んだんです。でも、なかなか出航できなくて、1カ月待たされたんです。そうこうしているうちに、そのイワシ船が没収されそうになり、船長さんが突如、今夜、船を出すぞ、って。

阿木 お話を伺っているだけでも、ドキドキします。

有馬 伝馬船に牽引(けんいん)されながら、いざ、海に出てみると潮の流れのせいで、船が戻されちゃうんです。周囲はアメリカや韓国の監視船でいっぱいなんですね。なので強行突破を目論(もくろ)んだ船長さんが私達に、「エンジンをかけて出るので、みなさんは船底にマグロのようになって寝ていてくれ」って。何しろイワシ船なもので、船底が凄く臭いんです。そこからポンポン音を立てて、船が進んでいったんです。

阿木 生きた心地がしませんね。

有馬 本当にそう。いつ撃たれるかと、ヒヤヒヤし通しでした。

阿木 日本に辿(たど)り着くまで、どれくらい掛かったんですか?

有馬 3日なのか4日なのか、はっきり記憶が無いんです。でも「日本が見えるぞー」って船長さんが叫んだので、飛び出して甲板に行ったら、黒い島が見えて。それが下関だったのですね。私、もう嬉(うれ)しくて嬉しくて、舳先(へさき)に立ったんです。ほら、映画「タイタニック」の有名なあのシーンみたいに。そのうちに太陽が昇ってきて、波を金色に輝かせて、それはそれは荘厳な景色。それを眺めながら、私の未来は輝いていると思いましたね、その時は......。

阿木 生涯、忘れられない光景ですね。

有馬 本当にそう。でも、不思議ですね。その時、それまで一度も考えたことがない"祖国"という言葉が心に浮かんだんです。でも、その後も苦しいことがいろいろあったから、あの時、死んだ方が良かったのかも、と思ったことも何度もありました。

阿木 日本での実のご両親との生活は、あまり幸せではなかったとか?

有馬 実の母をずっと「お母さん」とは呼べませんでしたね。父は今で言うDVが激しくて、何かというと殴られるので、私、家に居るのが嫌で嫌で。で、たまたま友達が、宝塚を受けてみない?と誘ってくれたので、一度も観たことがなかったんですけど、受けてみようと思ったんです。それで家を出ることができたんです。

阿木 宝塚では娘役でいらしたんですよね。でもたまには男役も?

有馬 当時、私は背が高い方だったから、男役が回ってくるんです。それが私、イヤで。「これ以上、男役をやらせるなら、私辞めます」と、先生に抗議して。

阿木 でも、宝塚は男役の方が人気があって、みんな、なりたがるんですよね。

有馬 周りは、変な子だと思ったでしょうね。

阿木 宝塚ではダンスに歌に演技にって、いろいろレッスンを受けるんですよね?

有馬 私、凄く勘が悪かったんです。普通、3~4回やれば覚えるところが、私はできなくて。その頃から、人の30倍は努力しなければ駄目だと思ってましたね。

阿木 でも、その不器用さがその後の有馬さんを形作ったのでは?

有馬 あなた、作詞家だから、さすがに上手(うま)いこと、おっしゃる(笑)。確かに、それは言えますね。器用じゃない分、努力を惜しまなかったというか。映画「夜の鼓(注4)」という作品で、「待って」というたった一言の台詞(せりふ)を1週間、言わされたんですよ。どうやってもOKが出なくて、私、本気で死にたい、と思ったくらい。それでも、愚直にやり続けるしかなくて。

阿木 そうやって苦労して撮った映画は、今の時代まで生き残っています。それって、他の職業では味わえない醍醐味(だいごみ)ですよね。

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