対談詳細

艶もたけなわ
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太田裕美 歌手

2018年6月24日号

阿木燿子の艶もたけなわ/207 

 1975年に大ヒットした「木綿のハンカチーフ」は、椎名林檎やスピッツの草野マサムネなど数多くのアーティストがカバーしている名曲です。この曲を歌う太田裕美さんは、その後もヒット曲を連発し、現在はソロ以外にもユニットを形成して息の長い音楽活動を展開。その「木綿~」誕生秘話をはじめ、プライベート情報も満載でお届けします。

 ◇鬼母と呼ばれてます(笑)。私としては厳しく育てたつもりなので。  

 ◇芸能界と新興のフォーク界が対立してた時代。どちらにも人脈があったなんて珍しい。  

 ◇私、両方と仲が良かったので、フォークと歌謡曲のいいとこ取りができたというか。

太田 私、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」と同じ頃にデビューしたので、宇崎さんとはよく番組をご一緒させてもらって。その関係でね、阿木さんとも親しくさせて頂いてたんですよね。

阿木 そう、一緒にいろいろ旅行もしたりして。

太田 八丈島とか、シンガポールとかね。

阿木 あれは何の旅行だった?

太田 お二人の事務所の社員旅行に、私達も同行させてもらったんです。

阿木 思い出したわ。裕美ちゃん、マネジャーの藤岡隆(注1)さん、それにレコード会社のディレクターだった白川隆三(注2)さん。あの頃、私は30代初めだったけど、裕美ちゃんは?

太田 23歳ごろかな。

阿木 グループ交際というか、遊び仲間だったのよね。裕美ちゃんの周りには、ナイトのようなおじ様達が居て、みんなに守られているふうだったけど、よく見ていると、裕美ちゃんがお母さんみたいに、みんなを大きな愛で包んでいる感じだった。

太田 本当に、周りはおじさんだらけで。私、今でもみんなのことを"育ての親"と呼んでいるの。

阿木 でも、基本的に遊び人が多かったでしょう? だから、裕美ちゃんはよく結婚したなって。

太田 私も自分で、結婚はしないだろうと思ってた。仕事を口実に、妻を放ったらかしにして、家庭を顧みない男性ばかりを見ていたから、奥さんって、つまらないな、と思ってたもの。

阿木 そう思うのも、無理ないか(笑)。

太田 そう、それがひょんなことから結婚して、今じゃ「あー、良かった」というふうには変わっているけど、男の人って、信用できないと思い込んでましたからね。

阿木 歌謡界にエネルギーがある時代だったから、レコーディングが終わってから、みんなで飲みに行ったりね。

太田 よく遊んで、よく仕事をして、っていう感じですよね。

阿木 デビュー当時から裕美ちゃんて不思議な立ち位置に居て、フォークやニューミュージック系の人達とも親しかったでしょう?

太田 所属していた渡辺プロダクションって、バリバリの歌謡界。でも、私の売り出し方としては、ピアノの弾き語りなんかをやっていたこともあって、スタッフの間では歌謡曲でもなく、フォークでもなく、ちょうど真ん中を目指そう、ということだったらしいの。だから、吉田拓郎さんや南こうせつさんたちとよくご一緒させて頂いたり。

阿木 新人さんで珍しいわよね。当時は既存のザ・芸能界と、新興のフォーク界が対立してた時代だもの。そのどちらにも人脈があり、繋(つな)がりがあったなんて。

太田 そう、私、両方と仲が良かったので、フォークと歌謡曲のいいとこ取りができたというか。

阿木 両方の橋渡し的存在でもあったでしょう。

太田 それがスムーズに行けたのは、おじさんスタッフの努力の賜物(たまもの)だと思うので、今更ながらに感謝しているの。あれから40年経(た)っても、フォークの方とジョイントさせて貰(もら)ったり、かと思うと、テレビで歌謡曲のお仕事も頂いたりしているので、今更ながら自分でも幅が広いなと思う。

阿木 他の歌手の2倍!

太田 ねっ、最初から宝物を貰った感じですよね。

阿木 私、裕美ちゃんに対してずっと、ふわふわした綿菓子みたいなイメージを持ってたんだけど、一時期、髪を刈り上げにしたことがあったでしょう?

太田 あー、ニューヨークから帰ってきた時ね。

阿木 心境の変化があったの?

太田 ニューヨークに行ったのは1987年なんだけど、それまで7年間、プロとして歌ってきて、太田裕美というイメージが出来上がっちゃってて。みんなの思い描く世界に居なくちゃいけないことが、息苦しくなってきたの。なので、とにかくニューヨークに行ったら、イメチェンで髪を切ろうと決めてて。ちょうど時代はパンクだったし、音楽的にもファッション的にも、殻を破りたかったというのがあった。でもあの時代を通過したからこそ、今はこうして落ち着いて、自分のやるべきことが見えてるって感じがする。

阿木 それにしても、よくニューヨーク行きを決心しましたね。

太田 19歳でデビューした時から、27~28歳ごろにきっと壁にぶつかるだろう、という予感があったの。で、実際、26歳の時にそろそろかなって思って事務所の渡辺晋社長に、「少し充電期間をください」って、お願いしたんです。

阿木 社長は何と?

太田 反対でしたね。「こんな浮き沈みの激しい音楽業界で、みんなに忘れられちゃうぞ」とか言われて。でも、藤岡さんをはじめ、周りのスタッフはみんな、私が7年間、どのくらいハードなスケジュールで仕事をしてきたかを分かっていたから、快く許してくれて。あの時、もし反対されてたとしたら私、今ごろやさぐれていたと思う。

阿木 嫌だ、やさぐれだなんて、裕美ちゃんぽくない(笑)。でも、伝わります。要するに、今のように前向きに生きられないってことよね。

太田 でも、実際はアパートを借りるのも会社に探してもらったり。結局いろいろな人に助けられた感じはあるんだけど、実際住みだしたら、「あー、これが一人で生活するってことなんだなー」って。

阿木 凄(すご)い解放感だったのね。歌手・太田裕美じゃなくて、一個人に戻れる。

太田 本当に今考えても、あの時決断して良かったなと思う。なので息子達にも勧めたし。

阿木 そうか、裕美ちゃんのところは、2人とも息子さん。どんなお母さんなの?

太田 鬼母(おにはは)と呼ばれてます(笑)。

阿木 教育ママだったってこと?

太田 そういうわけでもないんだけど、私としては厳しく育てたつもりなので。

阿木 何だかその喋(しゃべ)り口調で、鬼母って似合わない(笑)。

太田 ウチは男の子2人だから、朝からずっと怒鳴ってた。

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