対談詳細

艶もたけなわ
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秋吉敏子 ジャズ・ピアニスト

2018年2月18日号

阿木燿子の艶もたけなわ/190 

 海外渡航が現在のように自由ではない1956年、26歳で単身米国に渡り、日本ジャズプレーヤーの先駆けとなった秋吉敏子さん。88歳の今も現役として活躍しています。昨年末、チャリティーコンサートで来日した際、対談の機会を得ました。波瀾万丈の人生を振り返っていただくとともに、米寿を迎えてもなお溢(あふ)れる創作意欲の源泉を伺いました。

 ◇帰還した小野田少尉が軍刀を返すシーンを見て、「孤軍」を思いついたんです。 

 ◇秋吉さんはニューヨークで、目の手術をなさったばかりだとか? 

 ◇ええ、なので今は半分見えて半分見えない状態。柳生十兵衛と一緒です(笑)。

阿木 秋吉さんは時差にはお強い方ですか?
秋吉 何回フライトしても慣れませんね。毎回、それなりに大変です。
阿木 今回、日本にはいつ?
秋吉 金曜日にニューヨークを出発し、土曜日に成田に着いて、月曜日がコンサートでした。
阿木 では、先日の東京でのコンサートは、着いて間なしだったんですね。
秋吉 まあ、我々の世界では普通です。場合によっては、着いて次の日なんてことも有りますし。
阿木 時差もそうですし、スケジュール的にかなり厳しいですね。
秋吉 こっちに帰ってくると、夕方の5時ごろが一番、辛(つら)いです。
阿木 今回は日本で暮らす難民の子供達を支援するチャリティーコンサート(注1)のための来日ですよね。秋吉さんはニューヨークで、目の手術をなさったばかりだとか?
秋吉 ええ、なので今は半分見えて半分見えない状態。柳生十兵衛と一緒です(笑)。
阿木 よくぞ、そんなお体が大変な時に。チャリティーということで、特別な思い入れが?
秋吉 国境を超えた、子供達の支援団体からお声を掛けていただくだけでも嬉(うれ)しいことです。我々にできることって、それぐらいですからね。お役に立てて良かったな、と思っています。
阿木 お若い頃は、人生の優先順位がまず、ピアノでいらっしゃった。それがだんだん、社会貢献に移られたとか?
秋吉 私がアメリカに渡ったのは26歳の時ですが、10代ですでに日本でピアノの仕事をしていました。当時の日本は、ミュージシャンの数より、仕事の数の方が多い時代でしたから。
阿木 戦後、日本に怒濤(どとう)できた。
秋吉 おっしゃる通り。当時、ピアニストの仕事としては、ダンスホールが多くて。でも私、それが凄(すご)く嫌だったんです。だから自分で、ジャズしか演奏しないグループを作ったんです。あの頃、日本はまだアメリカの占領下でしたからね。
阿木 いわゆる進駐軍ですよね。
秋吉 私の仕事のほとんどが、米軍基地のクラブだったんです。でも基地は、数が限られてますからね、よく家賃を払うだけの仕事があったな、と思うんです。
阿木 そこでは、ご自分のグループで演奏を?
秋吉 カルテットを組んで、自分の好きな曲を、好きなようにアレンジして演奏していました。そう言えば、築地のダンスホールが私を雇ってくれて。クインテットで出演したんですが、そこは踊りたい男性客がチケットを買って、ダンサーと踊るシステムになっていたんです。でも、ダンサー達から、私の演奏では踊れないとクレームが付いて、すぐお払い箱になりました(笑)。
阿木 基本的にダンスホールって、チークダンスのためのスローバラードが好まれるでしょう? 秋吉さんの演奏は、そういう意味では、あまり向かなかった?(笑)。
秋吉 そうでしょうね。何しろ私達の演(や)る曲は、アップテンポのものが多かったですからね。もともとジャズはニューオーリンズで、ダンス音楽として生まれたんです。それをチャーリー・パーカー(注2)という人が楽器曲にした。ビバップと言いますけどね。
阿木 ジャズの本場のアメリカで、秋吉さんはビッグバンドを作っていらっしゃいましたよね。当時、日本の、それも女性がバンドリーダーを務めるって、大変なことだったんじゃないんですか?
秋吉 ご存じのように、ジャズはアフリカとヨーロッパの音楽の融合なので、その中に日本の血はまったく入っていないわけです。そんなこともあって、ある時期、日本人である私が、あちらのミュージシャンとジャズをやる意味がどこにあるのだろう、と考え込んでしまって。そんな時、現在のパートナーのルー・タバキンと出会ったんです。その後、彼の仕事の関係で、ニューヨークからロサンゼルスに移り住むことになったんですが、本当のことを言うと私、ジャズはルーに任せて、もうピアノはやめようかと思ったんです。でも、モントレー・ジャズ・フェスティバルに出演しないかというオファーをジョン・ルイス(注3)からもらって、結局、やめるのをやめたんです(笑)。
阿木 ニューヨークとロスでは、ミュージシャン気質に違いがありそうですね。 
秋吉 ニューヨークに集まるミュージシャンは、有名になりたい野心家が多く、ロスはスタジオミュージシャンとして、お金を稼ぎたいタイプが多かったですね。一本でも多く仕事を取ろうとしたら、いろいろなことができなくてはいけない。サクソフォンひとつ取っても、アルトからバリトンまで吹けて当たり前。その他にもクラリネットやフルートなんかもね。
阿木 楽器の持ち替えができないと、駄目ってことですよね。
秋吉 そう、でないとロスでは、ミュージシャンとして生きるのは厳しい。現に私自身も、ジャズの仕事があまりありませんでしたからね。ルーは日本でもオンエアされていた「ザ・トゥナイト・ショー」というテレビ番組に出演していたんです。でも、彼としては何か物足りない。欲求不満状態だったらしく、私に「僕がミュージシャンを集めるから、君は曲を書いて演奏したらどうか」って言ってくれたんです。

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