対談詳細

艶もたけなわ
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湯川れい子 音楽評論家・作詞家

2016年11月 6日号

阿木燿子の艶もたけなわ127

 プレスリーやビートルズ、マイケル・ジャクソンなどをいち早く日本に紹介した湯川れい子さん。湯川さんのナビゲートで、洋楽の世界に触れた方も多いでしょう。音楽評論家生活55年、作詞家生活50年という記念すべき年を迎え、音楽の枠を越えて多彩な分野で活躍し続けるパワーに、阿木さんも感嘆。その元気の秘密をお聞きします。

 ◇人生の残り時間が見えてきたからこそ、自分の気持ちに正直でいた。
 ◇大ヒットした「恋におちて」は、8回も書き直されたんですって?
 ◇阿木さんの「書き直しはしょっちゅうです」という言葉に、励まされました。

阿木 この対談で岸惠子さん、黒柳徹子さんにご登場いただきましたが、お二人とも本当にお元気で、お美しい。湯川さんも同世代ですが、改めてみなさん、何て生き生きと年齢を重ねていらっしゃるんだろうかと。
湯川 先日、黒柳さんの番組にお邪魔して、一緒に記念写真を撮っていただいたんですけど、黒柳さんのほうがお若いなと。横に並んで私、あら嫌だと思ったの(笑)。
阿木 お三方に共通しているのは、知的好奇心が旺盛なことと、心身共にタフでいらっしゃる。
湯川 私たちって、初めて女性が解放された世代だと思うんですね。阿木さんは、ウーマンリブの洗礼を受けた世代だから、女性の権利とか平等とかを主張できたでしょう。私たちはそれ以前、仕事をする喜びしかなかったんです。
阿木 湯川さんも、少女期に戦争体験をなさった。
湯川 はい。学生時代は、母から毎日のように高校だけは出してあげるから、卒業したら早くお嫁に行ってね、と言われていました。
阿木 私の頃でも、23歳が結婚適齢期。それを過ぎると売れ残りという感じでしたね。
湯川 「女の幸せは結婚よ」って言うのが、母の口癖でした。
阿木 その一方で、手に職を持って楽しく稼ぎなさい、ともアドバイスされたんですよね。
湯川 母は、戦争のさなかに夫と長男を亡くし、本当に苦労したんです。ですから、女性も手に職を持たないと、としきりに言っていましたね。
阿木 それは私も同じです。母は娘に早く結婚してほしいと願いつつ、自立を望んでもいたようです。
湯川 私たち、戦後、いきなり自由に生きていいんだよという風潮の中で、ロールモデルもなく、放り出された世代なんです。だから、何もかもがキラキラ楽しそうで、女優さんにも、詩人にも、お医者さんにもなりたいって......。
阿木 湯川さんにとって、今年は、音楽評論家55年、作詞家50年と記念すべき年ですが、もともと音楽評論家を目指されたわけではないんですよね。
湯川 20歳の時、たまたまジャズについて書いた原稿が、雑誌に採用されたんです。それでファンレターがたくさん来て、「書いてみませんか?」って依頼されて、へえ、こんな仕事があるんだって。
阿木 ジャズの専門誌『スイングジャーナル』に投稿したのが、きっかけなんですよね。
湯川 はい。それから、「アメリカのポピュラーミュージックにも興味があるなら、ラジオでDJをやりませんか?」と、次々にオファーが舞い込んできて、その都度、やります!やります!って(笑)。
阿木 湯川さんが仕事を始められた頃って、どこの職場でも、女性はマイノリティーですよね。その辺のご苦労って?
湯川 音楽業界って開放的に見えて、基本的には男性社会なんですよね。阿木さんも同じような体験をされたと思うけど、男性って思いのほか嫉妬深く閉鎖的だから、女のくせにというのはありました。
阿木 私がデビューしたての頃は、音楽業界で女性の活躍の場は、作詞家くらいでした。岩谷時子さんとか安井かずみさんとか。あとは作曲家からアレンジャーから、プロデューサーからディレクターからみんな男性。打ち合わせに行っても、女性は私一人なんてことが珍しくなくて。

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