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艶もたけなわ
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小栗康平 映画監督

2015年11月15日号

阿木燿子の艶もたけなわ 連載79

"寡作の映画監督"として知られる小栗康平さん。1981年のデビュー作にして名作「泥の河」以降、発表された作品はわずか計5本。そのどれもがスーパーヘビー級のボクサーが繰り出す"メガトン級のパンチ"のような威力を放ち、観る者を圧倒。その小栗さんの6本目の新作が近く公開。寡作の監督の「こだわり」に阿木さんが迫ります。

 ◇フランスでは映画監督は尊敬されるけど、日本では"映画監督って何だ"って(笑)。
 ◇日本では「映像教育」という概念があまりないように感じますが......。
 ◇皆無です。映画を文化として捉えていない。「観る」という行為は鍛えなければいけない。


阿木 小栗さんのデビュー作「泥の河」((注1))は、昭和30年代初頭の大阪を舞台にした作品でしたよね。私、世代的にかなり近いので、共感できるシーンばかりで。
小栗 原作者の宮本輝さんは僕より二つ若い、ほぼ同世代。少年がある年齢を超えていくときに初めて体験する人生の悲しみ、そんな普遍性のあるお話でした。それが「戦後11年」という時代背景を通してどう刻まれていたのか。そうした共感があったのですね。
阿木 あの頃は皆が貧しかった時代ですよね。その中でも多少貧富の差があって、あそこの家にはもうテレビが来たとか、冷蔵庫が来たとかね。「泥の河」を発表なさったとき、小栗さんは35歳。
小栗 はい。フリーの助監督でしたから、自分が一本立ちできるような見通しはどこにもない。35歳でもうギリギリで(監督デビューは)遅いという思いが強かった。
阿木 大手映画会社で育った監督には撮れない作品ですね。モノクロームで丁寧にワンカットずつ重ねていった感じが印象的でした。
小栗 昔は映画監督というのは映画会社に就職して、覚えめでたく昇進してなる"企業内監督"だったんです。小津安二郎さんも黒澤明さんも皆、そうでした。ところが僕らの頃は、会社は新人を採用していませんし、映画そのものが斜陽化して構造不況になっていました。
阿木 でもそれが、小栗さんの起爆剤になった。「泥の河」は大変高い評価を得て、内外の映画祭でさまざまな賞を獲得し、何とアメリカのアカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされたんですよね。
小栗 成り立ちからして信じ難いスタートでした。町工場で鉄工所を営んでいた映画好きな方がおカネを出してくれるところから始まったのです。さらに映画が完成しても公開のメドもたたない。それが最終的にはワールドセールスまでできた。
阿木 辛抱強く、下積みの経験を積まれてきたことが、功を奏しましたね。
小栗 大島渚さんや篠田正浩さんら"松竹ヌーベルバーグ"と呼ばれる人たちが、旧世代の人たちを否定する形で政治的な主張、観念的な映画を撮り始めていました。
阿木 ちょっと理屈っぽい映画でしたね。
小栗 僕はそれに対して違和感があって、でもだからといって小津さんたちの映画作りにも戻れない。そんな閉塞(へいそく)的な二重性の中で「泥の河」ができたと、僕自身は捉えているんです。
阿木 小栗さんと同世代、もしくは少し上の世代の監督さんは、ピンク映画を経験なさっている方が多いですよね。当時のピンク映画って、低予算という制約はあっても、自由に撮れたので冒険ができ、場数を踏んで次世代の映画人が台頭してきた感がありますよね。
小栗 僕も長くはありませんが、ピンク映画を経験しています。大学の先輩の大和(やまと)屋竺(やあつし)さん(故人)の現場に入れていただいたのが最初の助監督体験です。
阿木 強烈な初体験!(笑)
小栗 若松孝二さんを中心に「性と政治」を大きなテーマに掲げていました。
阿木 若松さんらしいテーマですね。性と政、ゴロ合わせっぽい感じはしますが(笑)。

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