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艶もたけなわ
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山田太一 脚本家

2015年9月27日号

阿木燿子の艶もたけなわ 連載73

本誌で好評をいただいているシリーズ「昭和のテレビ」。そのテレビドラマ史の中で、燦然と輝く名作を生み出してきた脚本家の一人が、山田太一さんだ。そんな山田さんの"恩師"、木下惠介さんとのエピソードや各作品に込められた思いなどを語っていただき、さらに今の高齢化社会に生きる「心得」を伺いました。

 ◇「老い」も今はかなり"奥行きがある時代"になってきました。
 ◇山田さんが家族のお話を描かれても、ただのホームドラマにはなりませんね。
 ◇僕の場合、ほのぼのとしたホームドラマを否定したところを基盤にしていました。


阿木 山田さんは、助監督を経て脚本家になられましたよね。当時、助監督さんの多くは監督志望だったと思うのですが、どうして脚本家を目指されたんですか?
山田 実は、僕はそんなにこだわりがなかった。就職難で、松竹という映画会社を受験したら入れてくれたという感じです。しかし順調にいけば、監督になっていたんでしょうね。ところが、テレビの台頭で映画がみるみるうちに斜陽産業になっていきました。
阿木 当時の日本映画界の衰退は加速度がついていましたよね。
山田 すごかったですね。当時僕は、木下惠介((注1))さんに付いていました。あるとき、代理店の方がTBSで番組を持たないかと勧誘に来たんです。ちょうど、木下さんもテレビに興味を持ち始めた時期だったので、やることになったんです。
阿木 当時の映画界では、テレビにかかわるのは堕落した証拠だ、みたいな風潮がありませんでしたか? その中で木下監督は好奇心が旺盛で冒険心もおありになった。
山田 そうですね。しかし、テレビ局側としても巨匠が一人で来られても困ったようで、僕がお供するようになりました。そうするうち、僕も木下さんの企画を書き始めたんです。木下さんも「君書け、君書け、どんどん書け」って(笑)。毎週30分で、レギュラーの俳優さんがいるドラマでしたが、毎回1話完結の短編でした。それが当たって五十数回続きました。
阿木 山田さんはどのくらいの割合で、お書きになったんですか。
山田 他の脚本家にも頼みましたが、僕が二十数本で一番多かった。木下さんの作風で脚本を書かせていただきましたが、次第に欲が出てきて、「自分のストーリー」を書きたいと思うようになったんです。また、木下さんは寛大な方で、「次からは自由に書いてみろ」と言ってくださった。
阿木 木下監督の親心だったんでしょうね。
山田 親切で、いい方でしたね。
阿木 木下監督の訃報をお聞きになったとき、ご自宅のテレビに異変が起きたとか?
山田 12月30日(1998年)にお亡くなりになって、大みそかにご遺体をお骨にしたんです。帰宅してテレビをつけたら紅白歌合戦をやっていた。ところが、すごい勢いでチャンネルが変わったんです。パパパッと。
阿木 誰もチャンネルをいじっていないのに? ポルターガイスト現象ですね。
山田 さらに、音がガーッと大きくなって。家族に「何、これ? 何とかしたら」と言っても止まらなくて、コンセントを抜いてようやく止めたんです。もしかしたら木下さんが「お前、紅白なんか観てるんじゃない」って、怒っていたんじゃないかって。
阿木 不思議なお話ですが、お二人のご縁の深さを物語るエピソードですね。監督がお別れにいらしたのかもしれませんね。
山田 随分お世話になりました。僕にとって大切な方でした。今でもあれが何だったのかわかりません。でも、作り話ではないんです。
阿木 山田さんが家族のお話を描かれても、ただのホームドラマにはなりませんね。テレビドラマ史に残る名作「岸辺のアルバム」を私はリアルタイムで観ていましたが、水害で家が流されていく映像と、ジャニス・イアンが歌う「ウィル・ユー・ダンス」が心に突き刺さって......。平凡な日常がある日突然壊れていく。そんな恐ろしさが、あのタイトルバックに潜んでいた気がします。それに加えて、キャスティングの妙というのでしょうか、楚々(そそ)とした感じの八千草薫さんが不倫をするという設定もショッキングで、目が離せませんでした。毎週毎週、人の心を覗(のぞ)くような感覚があって、観終わった後、「人間って」と考えさせられました。あの作品には、山田さんの中の人間を信じる心と、逆に、人間不信の思いが交差していたように感じたのですが......。

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