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プロレスデビュー60周年 アントニオ猪木「世間との闘い」を語る「嘲笑する人々よ、今に見てやがれ!」

2020年11月 1日号

 モハメド・アリ戦、日本人対決、国会進出、北朝鮮でのプロレスイベント...

「過激なプロレス」で私たちを魅了したアントニオ猪木は今年、プロレスデビュー60年の節目に当たる。ボクシングの世界チャンピオンだったモハメド・アリと格闘技世界一決定戦を行ったり、政界に進出したり、その行動は常に既成の価値観に挑み続けたと言えるのではないか。プロレスラーを超えるプロレスラーたる猪木が、「世間との闘い」の軌跡を語り尽くす―。

 昭和を代表するプロレスラーのアントニオ猪木が、9月30日にデビューから60周年を迎えた。今年2月20日には77歳の喜寿を迎えた猪木にプロレス人生を尋ねると、「世間との闘い」というキーワードが浮かび上がってきた。

 13歳でブラジルへ移住し、コーヒー農園などで働いていた時、遠征に来た力道山にスカウトされ日本プロレスに入門したのが1960年4月、17歳の時だった。同年9月30日にデビューし、以降、66年には日本プロレスを離脱して豊登(とよのぼり)が設立した東京プロレスへ移籍。翌年に団体が崩壊して日本プロレスへ復帰するも、会社乗っ取りを企てたとして71年12月に日本プロレスを追放され、翌72年3月に自身がエース兼社長となり、新日本プロレスを旗揚げする。

 新日本プロレスを設立してからは、当時「禁断」と言われた日本人同士の大物対決を実現させ、さらには柔道の五輪金メダリストのウィリエム・ルスカとの異種格闘技戦を行い、そして、ボクシングWBA・WBC統一世界ヘビー級王者だったモハメド・アリとの格闘技世界一決定戦を実現。

 その挑戦する魂は、リングを飛び越え89年7月には参院選に出馬し、当選。プロレスラーとして初めて国会議員となった。

「振り返ると俺のプロレス人生は、ただ、人を喜ばせたい、その一心だけでやってきたという感じですよ」

「喜ばせたい」という素朴な表現の真意を、さらに尋ねた。

「俺がブラジルから力道山に連れられて帰ってきたあの時代は、プロレスは日本中を熱狂させていた。プロ野球や大相撲なんか比じゃないぐらいの人気と影響力があったんです。それが、いつしかそうじゃなくなり、テレビなんかもNHKは一切報じない、新聞なんかも朝日、読売、毎日の一般紙は報じなくなり、スポーツ紙も東スポ(東京スポーツ)以外は、報じない時代になった。他のレスラーの中には『しょうがねぇじゃん。これでいいんだよ』なんて諦めてた連中もいたけど、そういう時に俺は『そうじゃねぇんだ。プロレスはこんなもんじゃねぇんだ』って憤ったというか、許せなくてね。諦めてた仲間のことも、偏見に凝り固まった世間のことも。だったら、そっぽ向いているヤツらを振り向かせてやるって、その一心だったんですよ」

 猪木流の「喜ばせる」とは、プロレスというジャンルに偏見と差別を持つ世間を「振り向かせる」ことであり、さらに振り向いたプロレスの外部にいる大衆を虜(とりこ)にすることだった。差別、偏見という、理不尽に心を踏まれることに対して闘う心は、力道山に弟子入りした若手時代に、馬場正平、後のジャイアント馬場と出会うなかで培われた。

「馬場さんとは、1960年4月の入門で、同じ日に日本プロレスの門を叩(たた)いたんだけど、向こうはプロ野球元巨人軍の投手で身長209センチという破格な肉体を持ってたし、5歳年上だったから、最初はお兄さんっていう感じでしたよ。だけど、道場で練習すれば、馬場さんは練習をサボるし、正直言って熱心じゃなかった。俺は最初は先輩とのスパーリングでも勝てなかったけど、3カ月後には誰も俺に勝てる人はいなくなって、強さには自信があった。だけど、同じ9月30日にデビューしたんだけど、俺は、実力派の大木金太郎さんに惨敗し、馬場さんは道場で一番弱い田中米太郎さんに快勝した。その時に、プロレスというものの仕組みが少し見えたというかね。ただ、逆にそのことで、負けてたまるかっていう闘争心につながった」

 そして、馬場は1年後に米国遠征が決まり、異例とも言える出世を果たすが、力道山の付け人を務める日々を過ごす猪木とは明らかな格差が生まれた。付け人時代は「毎日、理由もなく殴られていた」と明かすように、鉄拳指導が日常の苛烈な毎日だった。

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