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ブッちぎりV!最強「赤ヘル」軍団

2016年9月25日号

元「スポーツ報知」記者・駒沢悟 "伝説の記者"だけが知る 空白の25年秘話

 広島カープの歴史を半世紀にわたってベンチ裏で目撃してきた「伝説の記者」がいる。1960年代からカープを担当した元『スポーツ報知』記者の駒沢悟氏(74)。91年以来25年ぶりとなる広島優勝に際し、駒沢氏が万感の思いを込めて本誌に特別寄稿した。

 また優勝が見られるとは正直、思っていなかった。広島東洋カープは1991年にリーグ制覇して以降、長く低迷期が続いたため、実のところ、私は半ば諦めていた。全国に広がったカープファンの後押しの大きさを今、かみ締めている。
*   *
 新井貴浩―。彼にこれ以上の「死に場所」はあるまい。広島東洋カープの恩に報いようと必死なのを見て、つくづく幸せ者だと私は思う。ドラフトの指名候補にはなかった新井の存在を、駒澤大の先輩・野村謙二郎がじきじきに広島球団幹部へ伝えた。6位指名が決まった時、新井の両親は「契約金はいらん。カープへ入れてもらえるだけで......」と声を詰まらせた。
 先にフリーエージェント(FA)移籍した金本知憲から、新井はこう言われていた。「お前を入れてくれた人、育ててくれた人の一人ひとり思い出せ。その恩だけは絶対に忘れるな」と。
 移籍先の阪神でくすぶっていたのを拾ってくれたのも古巣のカープだった。ヤンキースから戻った黒田博樹と比べると、年俸はわずか20分の1。お金の問題ではなかった。
 カープの勝利に向け、なりふり構わぬ39歳。後輩が刺激を受けないはずがない。田中広輔、菊池涼介に丸佳浩。上位打線でスクラムを組む主力3人だけでなく、新井の後ろ姿を見るだけで、野手の誰一人として力を抜けなかった。
「投」は黒田博樹が手本になった。彼もまた「最後の職場」としてカープを選んだ。渡米後も延々と接触し続けた球団の熱意と姿勢は最後に実った。黒田は米国で仕込んだ数々の変化球を、偉ぶったそぶりひとつ見せず、惜しげもなく若い投手に伝えた。野村祐輔をはじめとする投手陣の技術的なレベルアップは、前田健太の穴を埋めて余りあった。
 黒田と新井。二人は元々仲が良かった。石原慶幸や永川光浩らを連れ、食事やゴルフの時間を共有していた。そんな繋がりも、カープにとっては幸いだったといえる。
 二人の背中を見ていると、「炎のストッパー」こと、故・津田恒実(注1)の姿が脳裏に浮かんでくる。津田もまた、精神面で若い投手たちを支えていた。
 ある試合で津田はメッタ打ちにされた。照明灯の消えた広島市民球場のダッグアウトにポツンと一人、頭からすっぽりバスタオルをかぶった津田がいた。「帰りのタクシーが玄関で待っとりますよ」と心配した球場の守衛さんからそう告げられた。居合わせた私に、津田はこう漏らした。
「こげな負け方をしてタクシーなんかで帰っちょると、ファンに申し訳のおて......。ワシャ歩いて帰るけ......」
 下着の入った小さなバッグを片手に、津田は合宿所(当時三條寮)まで歩いて戻った。「弱気は最大の敵」をモットーに太く短く生きた津田の逸話を、カープの若いピッチャーは誰もが胸に秘めていた。

 ◇「猛練習はウソをつかない」

 苦難を乗り越えて初優勝したのは、球団創設以来26年目の1975年だった。
 今年の夏、当時監督だった古葉竹識さん(80)と広島の街で会った。今回、7度目のリーグ優勝の勝因に、名将はまず新井と黒田の両雄を挙げた。「祝賀パレードは初優勝の1回きりじゃった。今年はぜひやってほしいね」と目を潤ませた。
 あの75年は、平和大通りを埋め尽くした30万人ものファンから祝福された。選手の乗ったオープンカーの後ろを、トラックの荷台に乗った担当記者の私も取材で同行した。あの感動は

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