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平成Climax 勁き声 美智子さまとその時代 第二回

2018年5月 6日号

折れず、弛まず、意思をもって歩み続ける

 多くの人を惹(ひ)きつけてやまない美智子さま。慈愛、優雅、献身、奉仕、どんなに言葉を尽くしても表現することのできないありようは、「正田美智子さん」としての幼少期、そして青春時代から変わらない。連載第二回は、誕生から現在までの歩みをたどる。

 どんな人でも、生涯に一度は小説を書けると言ったのは、作家の安岡章太郎だった。自分の人生を書いたら、それが小説になる。他人からはひどく凡庸に見えても、人間の一生には必ず驚くようなドラマが潜んでいる。それを書いたら読み物として成立する。しかし、問題は二作目である。これは創作の才能がなければ続かない。この安岡の言葉を今もときどき思い出す。
 そして、最近になって、ふと気づいた。
 どんな人でも美智子さまの歩んだ道のりに興味を持ち、資料を集め取材を重ねたなら、必ず一冊の伝記を書くことができるだろう。たとえ、どれほど書き手の才能が乏しくても、執筆対象である美智子さまの生涯は波乱に満ちていながら、多様な普遍性を含んでいる。誰が書いても、読者のこころに訴える作品に仕上がるはずだ。
 今回は、前後編にわたって、そんな美智子さまが歩む数奇な道のりをあらためて振り返ってみたいと思う。
 まずは正田美智子さんと呼ばれた時代についてである。
 昭和9年10月20日、旧東京帝國大付属病院で美智子さんは産声を上げた。正田英三郎と冨美(後に富美子と改名)夫妻の長女で、体重が一貫目(約3・75キロ)近くもある健康な赤ちゃんだった。
 父英三郎は日清製粉創業者の三男で、のちに社長となった人物。日清製粉といえば、かつては群馬県の館林で起業された小さな製粉会社だったが、やがて食品関係では群を抜く大企業へと成長した。
 母冨美は佐賀鍋島藩士族・副島綱雄、アヤ夫妻の長女。冨美は上海で生まれ、夫と共にドイツで生活をした経験もあるモダンで知的な女性だった。
 美智子さんには兄の巌がおり、その後、妹の恵美子と弟の修が誕生し六人家族となった。
 東京・五反田にある池田山と呼ばれる閑静な住宅街で健やかに育つ美智子さんにとって、初めての大きな環境の変化は、長引く太平洋戦争の中での疎開生活だったろう。小学4年生になった昭和19年に、いったんは藤沢に疎開したが、翌年の3月に祖父が暮らす館林に向かった。

 ◇地元の女の子と取っ組み合いに

 都会から来た学童にとって地方暮らしは、馴染(なじ)むのが難しい。四谷の雙葉学園雙葉小学校から館林南国民学校への転校である。
「なにしろ田舎の学校でしたから、美智子さんはピカーッと光っていましたよ。見たこともないような奇麗なブラウスを着ていて、肌は透き通るような白さでしょう。その上、頭脳明晰(めいせき)で運動もよくできるんです。初めのうちはみんな嫉妬心もあって意地悪なこともしたようです。私は一級下だったので詳しくは知りませんが、いじめはあったようです」と、当時の下級生で館林在住の栗原政子さんは語っている。
 実際に喧嘩(けんか)を吹っかけてきた地元の女の子と取っ組み合いになり、頬に引っ掻(か)き傷をつくりながらも応戦し、美智子さんが相手を制したことがあった。この一件以来、みんなが一目置くようになったというのだ。上州館林の方言である「だんべ」の使い方も習得した。これは言葉じりにつくのだが、「だんべですわ」「そうですだんべ」などと言って周囲を笑いの渦に巻き込んだ。
 また運動会では、地元の子どもたちと一緒に裸足で走ったり、隊列を組むときには、しっかり並ぶようにと指示したりしていたという。
「勁(つよ)い」という言葉には、"力がある"という意味の強さだけではなく、"折れない、弛(たゆ)まない"といった響きがある。同時に負けない、くじけないという精神もまた象徴されている。これは、母の冨美を中心にまとまっていた正田家の家風にも通じる。美智子さんは早い時期から芯の"勁さ"を持つ少女だったようだ。
 昭和20年6月、美智子さんは館林南国民学校から祖父母の別荘がある軽井沢東国民学校へ転校し、終戦をこの地で迎える。
 時は流れて、平成10年9月にインドのデリーで開かれた国際児童図書評議会の会場で、美智子さまの講演ビデオが上映されたことがある。その中で、疎開中に軽井沢で読んだ倭建御子(やまとたけるのみこ)と后(きさき)の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の物語から受けた感動を丁寧に語っている。
 皇子・倭建御子は反乱を鎮め国内を平定するため東征に出るが、その途中で海が荒れ船は航路を閉ざされる。このとき、弟橘比売命は自ら海神の怒りを鎮めるために入水した。
 これより前に、枯れ野を通ろうとした二人は敵の謀略にあって、火を放たれた。炎に囲まれる中で、皇子の気遣いから弟橘は九死に一生を得た。美智子さまは弟橘が海に身を投げる前に歌った別れの歌をビデオの中で紹介している。
「さねさし相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも」
 この古歌の意味を次のように解いた。
「弟橘の歌は、『あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ』という、危急の折に皇子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持を歌ったものです。(中略)『いけにえ』という酷(むご)い運命を、進んで自らに受け入れながら、恐らくはこれまでの人生で、最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。(中略)愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います」(美智子『橋をかける』)
 まだ幼い美智子さんが、古事記や日本書紀から子供向けに構成された物語を読み、すでに「愛と犠牲」の精神を感じ取っていたとしたら、なんとも暗示的なエピソードである。「愛と犠牲」は、皇室に嫁ぐと決めたときから、国民との黙約として心に持っていたことではなかっただろうか。美智子さんは、感受性の鋭い少女として、神話の時代より変わらぬ人間の真実を掬(すく)い上げようとしていたのだ。
 終戦を迎えた夏、美智子さんは小学5年生だった。同じく疎開をして奥日光にいた皇太子は、一歳年長の11歳と8カ月の6年生。昭和天皇は44歳、良子(ながこ)皇后は42歳。正田英三郎は9月で42歳に、冨美は夫より6歳若く、36歳になるところだった。それから12年後に、軽井沢で、皇太子と美智子さんの運命の出会いがあろうとは、もちろん、誰も予想だにしていなかった。
 昭和22年に聖心女子学院中等科に入学した美智子さんは、32年3月に聖心女子大学を首席で卒業した。ただ美しいだけではなくスポーツにも勉学にも秀でた才媛だった。在学中に読売新聞公募作文「はたちのねがい」に応募して4185編中の2位に選ばれている。
 この作文のタイトルは、なかなか刺激的である。「虫くいのリンゴではない」というものだった。

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