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知の巨人・内田樹氏 「平成」を総括 再びアメリカに敗れた日本

2018年3月11日号

「平成」という時代の幕が下りるまで1年余。この30年ほどの間には冷戦の終了やバブル崩壊、政権交代や大震災など国内外でさまざまな出来事があった。そんな「平成」とは一体、どんな時代だったと見るべきなのだろう? 知の巨人・内田樹氏が解き明かす。

▼「主権」はカネでは取り戻せなかった

 昨年末に平成の30年を総括して欲しいという原稿を頼まれたが、私が書いたのは「これから後『無慈悲で不人情な社会』が行政主導・メディア主導で創り出されてゆくだろう」ということだけだった(注・1月21日号)。

 新年早々に気鬱な話を読ませてしまって、読者の皆さんには申し訳なく思う。でも、ほんとうにそう思っているのだから仕方がない。
 過去の総括を求められたのに、これから日本を待ち受けるディストピア的未来について書いたのは、「これまでの30年を総括するためには、これからの30年を予測して、前後60年のスパンでおおまかな趨勢(すうせい)を見る必要がある」と考えたからである。今回はそれを踏まえて、過去30年間の総括をしてみたいと思う。
 率直に言えば、1989年からの30年間は日本にとって「落ち目」の日々だった。そして、この長期低落傾向はこれから先もう止まることがないと私は思っている。
「落ち目」とは具体的にはどういうことなのか、そして、なぜそれは「もう止まることがない」と私が断言できるのか、それについて思うところを書き記したい。

 ◇バブルが日本人に残した深い傷

 1989年、昭和が終わり平成が始まった年にベルリンの壁が崩壊して戦後40年余にわたって続いてきた世界理解の「枠組み」が失効した。東西冷戦構造というのは重苦しく、血なまぐさいスキームではあったけれど、わかりやすい構図だった。さまざまな政治的出来事は「資本主義対共産主義」「アメリカ対ソ連」「右翼対左翼」という対立構図の中でだいたい説明できた。その構図で説明することが不適切なイシューであっても、それで説明がついた。その意味ではシンプルな時代だった。

 90年代に、その「大きな物語」が失効した。もう、「大きな物語」は使い物にならない。そんなもの、要らない。人々はそう思ったし、口にもした。その頃、「ポストモダン」という言葉がさまざまな文脈で使われたが、定義のはっきりしないその語に人々が託したのは「万人共通の世界理解の枠組みとか判断基準は失効した。これからは、みんな好きな仕方で世界を見て、好きな仕方で世界を切り取ればいい。国家のことも、共同体のことも、公共の福祉のことも私は与(あずか)り知らない。ほっといてくれ、好きにさせてくれ」といういささか投げやりな気分であった。
 それは日本ではまさにバブル経済の時代だった。ご記憶だろうが、あの時代、人々は株の売り買いと不動産の売り買いに狂奔した。高校のクラス会で最初から最後まで同級生たちが株と不動産の話しかしていなかった年のことを覚えている。私はどちらとも無縁だったので話題から離れていた。
 するとひとりの同級生が「内田は株をやらないのか?」と訊(き)いてきた。「しないよ。金は額に汗して稼ぐものだろう」と答えたら、満座の爆笑を誘ってしまった。
「内田、お前はバカか。金が道に落ちているんだぜ。しゃがんで拾えばいいだけなんだ。お前はしゃがむのがそんなに面倒なのか?」と意地悪く切り立てられて答えに窮したことがある。
 どこに金が地面から生えている国があるものか。いずれ誰かの懐から落ちたものだろうと思ったが、言っても相手にされないと思って黙っていた。それから数年して、多くの日本人が懐の中身を地面にぶちまけてバブル経済は終わった。
 バブル経済とその瓦解(がかい)が日本人の心根にどういう影響を与えたのかについての学術的な分析があるかどうか私は詳(つまび)らかにしない。だが、その経験が日本人の心の深いところで「純良なもの」「無垢(むく)なもの」を損なったということは直感的にわかる。相当数の日本人がその数年の間におそらく生涯で最も陽気で蕩尽(とうじん)的な日々を送った。それが勤労によってではなく、一日何本かの電話のやりとりだけで手に入ったという事実は想像以上に深い傷を人に残したと私は思う。
 一つには、「額に汗して働き、真面目に生きていると、そのうちいいことがある」という素朴な条理に対する信頼が傷つけられたからである。紙くずを高値で売り抜けた人間がこの時代で最もクレバーな人間だと見なされたからである。しかし、バブルの崩壊はもう一つ、勤労への信頼の喪失よりももっと深く、致命的な傷を日本人に残した。そんなことを言う人を私は自分の他に知らないけれど、それは「国家主権を金で買い戻す」という国家戦略が不可能になったということである。わかりにくい話なので、これをご理解頂くためには少し説明をさせて頂きたい。
 戦後日本の国家戦略は、一言で言えば、「対米従属を通じての対米自立」というものだった。敗戦国にとっては占領国=宗主国アメリカに徹底的に従属して、同盟国として信頼される以外に国家主権の回復と国土回復の方途がなかったのだから、この選択には必然性があった。現に、昨日までの敵国に拝跪(はいき)することで日本は1951年にサンフランシスコ講和条約で形式的主権を回復し、68年に小笠原を、72年に沖縄を領土回復した。だから、その時点まで「対米従属を通じて対米自立を果たす」という国家戦略はそれなりに有効だったのである。そう評価してよいと思う。
 しかし、朝鮮戦争特需、ベトナム戦争特需というアメリカの戦争への加担によって追い風を得て、経済力においてアメリカの背を追うようになった日本人の頭の中に、80年代のある時点で、ふと「徹底的な対米従属以外の選択肢」があるのではないかという夢想がかたちを取った。
 もともと60年代以降の高度成長期を担ってきたのは戦中派世代である。彼らを駆動していたのは「次はアメリカに勝つ」という敗戦国民としてはごくノーマルな「悲憤慷慨(こうがい)」の思いであった。

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