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わが青春を彩った人気観光地の今 "思い出の地"はどうなった?

2018年5月27日号

 若かった頃、住み慣れた町から切符を手に向かった旅先。大酒を飲んでハメをはずしたり、出会ったすてきな異性に恋をしたり、初めての景色や味や音に胸を躍らせたりしたことはないだろうか。青春を彩った人気観光地は、その後どうなったのか。

 世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(50)は大学4年生だった1991年、卒業旅行の行き先にサイパン島を選んだ。サンゴ礁に囲まれた無人島に足を延ばし、白砂のビーチで遊んだ夜、同行した友人たちは疲れて先に寝てしまった。牛窪さんは一人、ホテルのプールに泳ぎに行き、大阪から来た大学4年生と出会った。
「パラソル付きのテーブルが風に飛ばされ、私に直撃しそうになった時、たまたま居合わせた彼が助けてくれたんです。8年後、その彼と結婚しました」
 牛窪さんの人生を変えた出会いの地には、もう日本から直航便で行けない。日本とサイパンを結ぶ唯一のフライトだった米デルタ航空の成田―サイパン線は5月6日、廃止になったのだ。
 サイパンは米国の自治領、北マリアナ諸島に属する。太平洋戦争が終わるまで日本が統治していた。77年に日本航空が定期便を開設し、旧島民や慰霊団が多く訪れた。米国の航空会社も続き、東京や大阪などから3時間半で行けるビーチリゾートとして人気になった。
 牛窪さんが訪れた翌年、確かな歌声と美脚で若者の心をつかんだ森高千里が〈夏休みには二人してサイパンへ行ったわ 日焼けした肌まだ黒い 楽しい思い出〉と歌った。シングル「私がオバさんになっても」だ。
 北マリアナ諸島政府の資料によれば、日本人の入国者数は97年、45万人に達した。入国者に占める日本人の比率は7割を超すほどの時期もあった。だが、同年をピークに日本人客は減少に転じ、昨年は5万人。航空業界の関係者が言う。
「日本発のフライトが減ったから日本人客が減ったのか、あるいは客が減ったから減便したのか。確実に言えることは、韓国や中国の客が増え、日本の旅行業者が今までの値段ではホテルを確保できなくなった」
 2005年には日航がサイパン線を廃止し、今は韓国と中国の客が日本人の5倍前後。一昨年まで仕事でサイパンに住んだ日本人男性(49)が言う。
「直航便がデルタだけになり、ツアー代金がグアムよりも割高になった。グアムの方がホテルもショッピング施設も多いので、勝ち目がない。日本語の看板の付いた飲食店や、旧日航ホテル前の大型ショッピングモールは廃虚のままでした」
 マリアナ政府観光局の澤田ゆかPRマネジャーによれば、航空各社に再就航を依頼、スカイマークが検討中という。
「大勢の方から再開を望む熱い思いを手紙やメールでもらいました。日本と関わりが大きい土地だけに、再開に向け努力しています」
 1980年代、日本人がサイパンなど海外リゾートを席巻する一方で、客を奪われたのが南国イメージが売りだった国内の観光地。
 宮崎市は70年代まで"新婚旅行のメッカ"と呼ばれた。同市が集計した新婚客の宿泊数はピークの74年度に74万人。うち3割は「鬼の洗濯板」と呼ばれる奇岩とビーチが美しい青島に泊まった。だが、83年度には新婚客宿泊数は26万人に激減した。同市観光戦略課によれば、「今の青島は新婚客と結びつけてイメージすることは特になく、市民や観光客が多く訪れる景勝地」。新婚を含めた観光入込客数は70年代より最近の方が多くなった。
 伊豆諸島の新島へは、海外旅行が一般化する前の82~83年、同じ村の式根島と合わせて年12万人ほどが訪れた。新島村産業観光課の大沼忠雄課長が振り返る。
「大半が7~8月に来る高校生や大学生。大型船が定員の何倍も乗せて来た。当時は民宿が200軒、ディスコが3軒、ビアガーデンもありました。夜はすごい数の若者がうろうろしていて、原宿みたいだったよ」
 70年代に4回、遊びに行ったという埼玉県の会社員男性(62)は赤裸々に言う。
「行きの船に乗ると、すぐ女の子が待っているデッキに上がってナンパして、島に着いてもひたすら女の子を追いかけていたな。民宿の8畳ぐらいの部屋で5組のカップルが......。最高だったな」

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