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青い空白い雲
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靖国神社に「吉田松陰の大日本主義」が祀られている?

2018年12月16日号

牧太郎の青い空白い雲/697 

 日産vs.ゴーンの「生きるか?死ぬか?の戦争」でメディアは大騒ぎしているが......今回も、当方、孤独に(笑)「長州の天皇利用」について書きたい。
「誰か」が(司法取引までして、難しい外交問題になるのを覚悟して)"ゴーン逮捕劇"を大袈裟(おおげさ)に演出する。アレでもか!コレでもか!と「ゴーン極悪人説」が流され「限られた人しか知らないハズの裏情報」がいとも簡単に報道される。
 ちょっと、おかしいじゃないか?
 多分、日本国史に残る「天皇生前退位」の大義を矮小(わいしょう)化し、国民が「天皇制」を考えようとする機運に水を掛けようとする「輩(やから)」の世論操作の一環だろう。
「誰か」が、ゴーン騒動を利用して「天皇家の存在」「天皇制の検証」(それは民主主義のありように関係するのだが)を忘れさせようとしている。
「悪意に満ちた意図」を感じてならないが......まあ、それはどうでもいい。前回の「江戸っ子に『靖国』は"長州藩の守り神"にしか見えない?」の"続き"を書きたい。
    ×  ×  ×
「大村益次郎」をご存じだろうか?
 幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人に数えられる人物だ。
 明治2年(1869年)函館五稜郭で、榎本武揚ら最後の旧幕府残党軍が降伏し、戊辰戦争は「官軍勝利」で終結した。大村自身は上野戦争で長州藩兵を指揮し、太政官制で軍務を統括した「兵部省」(つまり「陸軍」)の初代の大輔(次官)になっている。
 その大村益次郎の巨大な銅像が靖国神社の参道中央に建っている。
 靖國神社の前身「東京招魂社」が創建されたのは、戊辰戦争が終結した明治2年6月29日(明治12年、靖国神社と改称)。その後つくられた大村益次郎の銅像は靖国のシンボルだった。つまり、靖国神社は「天皇」の軍隊(明治新政府)の軍事的勝利を誇示するための「広告塔」の存在だった。
「慰霊の場」と言っても、勝利を記念するのが目的だから「敵」を祀(まつ)ることはできない。天皇と朝廷のために戦ったこともある会津藩まで「賊軍」として排除された。
 この戦勝記念館?の設立を主張したのは他ならぬ「陸軍の生みの親」大村益次郎だった。靖国神社は「天皇」という名前を利用した大村益次郎の勝利、長州藩の勝利!を記念する神社?だから、江戸っ子は靖国は「長州藩の守り神」と思っていた。
    ×  ×  ×
「怨親平等(おんしんびょうどう)」という言葉をご存じだろうか?
「怨親」は敵対する者と親しい者のこと。つまり、敵を憎まず、両者を平等に扱う!という意味である。
 自分と戦った相手でも、その菩提(ぼだい)を弔って供養するのが古来、日本人の礼儀だった(鎌倉の円覚寺は蒙古襲来で戦死した侵略側の蒙古兵も供養の対象にしている)。
 だから「靖国」のように「官軍」と「賊軍」を区別する宗教施設はどこを探しても存在しない。
 天皇陛下が「靖国」に参拝されない理由は、その「不平等」にあるのではないか?
 天皇がかつて戦場になった各地に赴くのは「戦争の犠牲者全員」を慰霊するためである。天皇は「怨親平等」なのだ。
    ×  ×  ×
 戦死したわけでもないのに、靖国神社に祀られた「吉田松陰」は"長州の思想的守り神"である。
 吉田松陰は『幽囚録』で「今急に武備を修め、艦略具(そな)はりほう略(りゃく)足らば、則(すなわ)ち宜しく蝦夷(えぞ)を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察加(カムチャツカ)・〓都加(オホーツク)を奪(かちと)り、琉球を諭し、朝覲(ちょうきん)会同すること内諸侯と比(ひと)しからめ朝鮮を責めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉じ、古(いにしえ)の盛時の如(ごと)くにし、北は満州の地を割り、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を牧(おさ)め、漸に進取の勢を示すべし」と主張している。
 北海道を開墾し、隙(すき)に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球・朝鮮・台湾・ルソンまでも支配しろ!というのだ。
 戊辰戦争後、1869年に蝦夷地を北海道に改めて事実上"併合"し、79年琉球併合、95年台湾併合、そして1910年には朝鮮併合......と、新政府は「吉田松陰」の言う通り「大日本主義」の道を突っ走り、中国から、さらにルソン島を越えて南進し、その揚げ句に日本は自滅した。
「吉田松陰」の評価はさまざまあると思うが、彼の「拡大主義」は間違っていた!と思う。
 天皇が靖国神社に参拝されないのは、その社に「長州の大日本主義」が祀られているからではないだろうか?

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