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人生の四季
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「茶道の古流を知っていますか?」

2017年12月10日号

一条真也の「人生の四季」 107 

 前回、わたしの父が礼法家であるという話をしたが、父は茶道家でもある。流派は小笠原家茶道古流だ。
 茶道の流派といえば、千利休(せんのりきゅう)から始まる表千家、裏千家、武者小路千家が三千家として有名だが、茶湯の開山と称される村田珠光(じゅこう)の弟子である古市胤栄(いんえい)、古市澄胤(ちょういん)から始まる茶道古市家の流れをくむのが小笠原家茶道古流である。
 古市家の後裔(こうえい)が江戸時代、小笠原総領家(小倉藩主)の茶道頭をつとめたため、小笠原家茶道古流の祖として名があげられる。
 珠光は南北朝から室町の中期にわたり行われた「闘茶」や能阿弥(のうあみ)が制定した上流武士を中心とした茶湯を、広く一般のものにしたといわれている。珠光が目指した茶は、のちに千利休で有名になる「わび」「さび」の世界そのものだ。
「藁(わら)屋に名馬つなぎたるがよし」――"侘(わ)びた藁屋と立派な馬"という、まさに対照美をよしとした。一般の人たちと上流武士の世界の楽しみを結び付けたわけである。
 当初、珠光の弟子は大名たちだったが、その中から播磨守・古市澄胤に神髄を託した。澄胤は、開祖である珠光の教えを庶民に広め続けたが、1508(永正5)年、56歳で戦死する。当時は戦乱の世であった。
 珠光の教えは、町人の町として栄えていた堺の地で千利休の登場により開花していくことになる。
 小笠原家茶道古流は、家元四代・古市了和(りょうわ)より、小倉城に入城してからの初代小倉藩主である小笠原忠真(ただざね)に仕え、それ以後、「小笠原家古流」と称するようになった。
 江戸末期には古流の中興の祖と呼ばれる十一代・古市自得斎(じとくさい)が登場するなど、隆盛を極めた。ただ、明治になると武家のものだった茶湯は下火になり、古流は小倉の地に温存される形となったのである。ちなみに、小倉の松柏園ホテルには、小笠原総領家三十二代当主の小笠原忠統(ただむね)先生が監修された茶室があり、多くの茶人たちから愛されている。

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